私にとっての「おもしろさ」とは? - 宮崎駿作品からの分析

 私自身の好きな映画はたくさんありますが、好きな映画の中に共通する要素にはどんなものがあるのかについて、考えてみた結果のまとめです。「その映画の好きな所」ではなく「私はどんな要素があるとその映画を好きになってしまうのか」という観点からの分析です。

0. はじめに

 10代の頃から物語の端くれを書いてみては挫折することを繰り返してきました。そんな中で、自分が物語を作る立場となって考えた場合に、どんな要素を自分は面白いと感じているのかについて分析をしてみたくなりました。大ヒットするとか、メジャーデビューするとか、そういう規模の話ではありません。あえて「自分自身が楽しくなってしまう要素」に着目して、自分のために自分好みの面白い物語を書けるようになるには、どこを工夫したらよいか、という視点から分析しています。

 今回は、宮崎駿監督作品の内、自分が好きな以下の作品をベースに分析をしてみたいと思います。

※注意※

  • 私自身はシナリオ作成について専門的な勉強をしたことはありません。そういう文献を読んだこともありません。一部は車輪の再発明になっている部分もあると考えています。
  • あくまで自分用のメモなので、適宜補足更新していく予定の記事です。
  • トップガンや他の話もちょいちょい混ざります
  • ナウシカに関する私の解釈はここにまとまっています

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1. 行動の説得力はキャラの意思の強さから生まれる

「ご都合主義」という言葉に怯えない

 物語を考えている最中、頭の中に必ず浮かんでくる「ご都合主義」という言葉。この言葉を気にし始めると、作中のキャラクターの行動や、得られる結果についてやや非現実的な展開を結びつけることに怯え始めてしまいます。ありえないはずのことが起きないと物語が進展しないというならば、必要なのはそのシナリオの変更ではなく、その「ありえないこと」への説得力を増すことだと私は考えます。

 

 上記の作品のなかで描かれる「ありえないこと」にはどんなことがあるかについて考えてみます。例えば以下の通り。

 これらは一見非現実的なハイスペックさに見えるのですが、それでも、「この人ならやりかねない」という説得力があります。説得力があるからこそそれが突飛な展開、取ってつけたような設定、として受け取られず、違和感なく観客に受け入れられるのだと思います。

 この説得力が足りないと、「なんでいきなりそんなことできちゃうんだよ」と怒りの感情が出てきてしまいます。一方、説得力が足りていると、このような超常的なハイスペックさはむしろ、「かっこいいなあ」「このキャラならこのくらいやっててもおかしくないよなあ」「自分もやってみたいなあ」と思わせるような、憧れのポイントとして記憶されます。

 つまり、「ご都合主義」というのは、非現実的な展開、非現実的な能力が問題なのではなく、そこに説得力を伴わないままそうした展開がねじ込まれてしまうことが問題なのだと私は考えます。よって必要なのは「そういう行動をしかねない人間である」ということへの信頼感をいかに構築するか、という点だと考えます。描きたいものがあり、それに説得力がないとき、それは「説得力がないから描写を止める」のではなく、「説得力さえつければそれを書いてもいい」と考えればよいのだと思います。

 「ご都合主義」と言われかねない展開事態が禁忌/悪というわけではないのです。

 

説得力はどこから生まれるか

 上記でさんざん「説得力」と書いてはいますが、それはどこから生まれるのでしょうか。私は、下図のような形で「説得力」が生まれると考えます。

(1)意思の強さ、望みの強さ

 そのキャラクターが何を望んでいるか。そして、「その望みのためならばなんだってできる」と思っているか(=意思の強さ)。そういう点をきちんと練り込んだ上で描写をすることが重要だと私は考えています。観客がそのキャラを見たときに、「ああこのキャラはもうこれに関しては覚悟が既に決まっているな」と思わせられたらOKと言えます。

[ラピュタでの例]

  • パズー:父さんが見たというラピュタを実際に見てみたい
  • シータ:自分の家系に隠された秘密についての真実を知りたい
  • ムスカラピュタのちからを手に入れたい
  • ドーラ:最高の財宝がほしい

 宮崎駿作品のうち、私が面白いと感じられる作品の共通点としては、以下のような特徴があると考えています。

  • 意思をかためたきっかけ→最低限の「語り」で行われる。描写は鍵となるポイントのみ描く。
  • キャラクターの意思の強さ、望みの強さ→言葉ではなく、日頃の些細な「行動」からにじみ出る。ジャブとして観客に予め示しておく。

[例]

  • ナウシカのきっかけ→幼少期の王蟲との接触+「父や皆の病気を治したくて」と言葉で語る。
  • パズーのきっかけ→父とラピュタの話。
  • シータのきっかけ→祖母から教わっていた不思議な話の数々、「誰にも渡してはいけない」ことへの疑問を抱いていたことなど。

 

(2)説得力をもたせる≠全てを説明する

 この一段階前としての、何かのきっかけで「望みを持つようになる」「迷っていたけどだんだん意思が固まってくる」という過程に重きを置いた描写になると、比較的私の琴線に触れない作品になってしまいます(そういう作品に名作も多いですが)。物語の尺や、キャラクターの成長を描くなど、そういう面でのメリットは少なくありません。しかし実はこうした描写に頼ってしまうと、「全体の情報量が落ちてしまう」ため、作品としての濃度が下がってしまうと私は考えています。長期連載やTVシリーズならば描くべき要素なのでしょうが、劇場版や読み切りサイズの尺ならばそこは落としてもよい部分と考えます。

 個人的な見解として、この段階を敢えて本編で描くのではなく、それを読んだ/見た人間がその過程をありありと想像してしまうような、気づいたら二次創作を始めてしまうようなものが、とてもよい描写なのだと思っています。「これだけの行動や、これだけの関係性に至るには、それまでにどれだけの積み重ねがあったことだろう」と作中の行動から観客に想像させることが重要なのです。そしてそこの過程を描くべきは作者本人ではなく、それを受け取った側の読者が想像で埋め合わせれば良いことなのだろうと思います。

 特に、作品の濃度や密度を上げ、テンポを保つためには「語りすぎない」ことも重要です。観客の把握力を疑い、「なぜそうなったのか」を説明しすぎると、説明がくどくなりすぎてテンポも落ちてしまいます。観客を信頼し、最低限の説明に済ませ、その間に起きたことは二次創作で勝手に埋め合わせてもらう、というような描写で済ませる勇気も必要なのでしょう。

[例]

 以下の様子は、作中のささいな描写から推測はできるが、直接的な描写はない。しかし観客は本編の情報から好きに想像して埋め合わせることができる範囲となっている。

  • ナウシカが子供の王蟲との別れから腐海遊びをするようになるまでの期間。
  • ナウシカが皆の病気の原因を突き止めるために地下室で研究している期間。
  • パズーが父と過ごしていた日々、父が死んでしまってからシータに出会うまでの間の生活。
  • シータが家族と共に生きていた頃から、一人で暮らす日々、そしてムスカに攫われるまでの期間。
  • ムスカラピュタの話を知り、手に入れようと動き始めシータをさらうまでの期間。

※上に挙げたジブリ作品とは異なりますが、「トップガン」や「トップガンマーヴェリック」も同じ構造を利用していると考えます。ゆえにあの作品群は濃度が保たれテンポが維持されていると言えるでしょう。

  • マーヴェリックが父と母を喪ってからパイロットを目指すまでの期間
  • マーヴェリックがグースとペアを組むまでの期間
  • マーヴェリックとアイスマンが握手をしてから「トップガンマーヴェリック」までの30年間

 などなど......

 

意思の強さバトル

(1)意思の強い人間を複数用意する

 「既に意思が固まっており、腹をくくっていて、望みがはっきりしているため、行動の端々にその意図がにじみ出るキャラクター」という存在が、作中にどれだけ多く描けるかということが、作品の面白さと比例すると私は考えています。

 主人公やヒロインの意思を強くすることはできますが、それをさらに多くの勢力に、なんなら敵側までに徹底しようとすると、かなり難易度が上がってきます。しかしここを維持できるようになると、作品の面白さの質が一段上がると私は考えています。

 この「意思の強さ」の根拠に、安易に悪意や狂気(人間を滅ぼしたい、特定の人間への復讐に全てを巻き込む、等)を持ってきてしまうと、そのキャラクターの格がやや落ちることになってしまいます。敵の行動指針ですら、芯の通ったものとして描くことが、魅力的な物語の重要な要素になるのだと考えています。

[例]

 加えて、敵の内部でも意思が割れたりしていると、その数だけその場の意思や勢力が分裂し、途中で思惑が交錯しぶつかり合うことになります。そうした側面があると、展開の進み方がより複雑になり、面白さが増していきます。(例: ムスカと軍、トルメキア本国とクシャナ、など)

 

 また、敵だけではなく周囲のキャラクターも重要です。迷いや混乱を担うような「普通の人々」が多く、彼らが権力を持っている作品ではやや面白みが欠けてしまいます。そうしたキャラクターたちは描くことがあっても、彼らの意思よりもより強い意思と権力をもつ人間が彼らの行動指針を決める(覚悟を固めさせる)ポジションに居ると、作中の(私にとっての)不快感を減らすことができます。

[例]

  • ミトや城おじとナウシカの関係
  • ドーラ一家の息子たちとドーラの関係

 覚悟が完了しきっているキャラクターが多ければ多いほど、例えそれがモブキャラであったとしても、その集団の意思が反映されやすくなります。背景に居る集団の持っている意志がどんなものなのかを考えながら背景を描写すると、その場の生活感や価値観がぐっと上がります。

 またそういう描写があると私自身が見たときに「面白い!」と感じる頻度が上がっていくので、自分が物語を書くならばそこに注意をすべき、ということになります。

[例]

  • トルメキアの人質として選ばれてる城おじたち(最悪飛び降りて死ぬつもりだった)
  • ナウシカの身代わりになる女の子
  • トルメキアに船を襲われて最後のデッキを破城槌で破られそうになってる中で自爆の準備をしているペジテの人たち
  • ジルが殺されたと聞いてすぐに石を手に握ってた風の谷の人々
  • トルメキアに対して反乱する風の谷の人々
(2)意思の強さがぶつかり合う対象はなにか

 登場するキャラクターたちの意思が皆求め、そしてそれのためなら全力を尽くしてしまうようなものとして何があるか、を設定することが重要となります。例えば図式化すると以下のようになります。

 共通するのは、「強大な力」や「とてつもなく高い価値があるもの」などの要素を中心に据えることにより、各キャラクターの強い動機として作用しています。この「高い価値があるもの」が存在し続ける限り彼らの意思や行動は止まることはありません。彼らの意思が拮抗し続ける限りそれが面白さにつながっていき、複雑なストーリーを生み出します。

 故に、彼らの行動を止めるためには、その「高い価値があるもの」の価値が失われる必要があります。そのため上記の作品で言えば、巨神兵は崩壊し、ラピュタバルスで崩壊して宇宙へ飛んでいき、カリオストロの城の財宝は「古代の街」だったために持ち運べなかった、というオチになります。

 また上記作品だけではなく、他の宮崎作品でもこの傾向はあります。風立ちぬでは、主人公堀越二郎の「創造的人生の持ち時間は10年」の期間を、菜穂子とカプローニと軍部が奪い合っています(10年経過すると無くなってしまう)。

 もののけ姫に関しては少々複雑にはなりますが、大まかには「シシ神の首を巡って奪い合い(そして消滅する)」というストーリーになっています。

 また、この「どのような勢力が、どのような構図で物語が進んでいくのか」を、序盤でどれだけ端的に説明できるか、もストーリーのテンポに大きく関わってきます。

(3)面白さ≠展開の読めなさ

 「展開が読めない」というフレーズは、面白い作品への褒め言葉として使われることがあります。しかし、これを字の通りに受け取り、「観客の予想を裏切ることが面白さにつながる」という解釈をしてはいけないのです。予想を裏切ることが面白さを裏付けるわけではないことは、結果を知っていてもなお面白いと思える作品が実在することで証明できます。何度見ても面白い、という褒め言葉は、その点に対する評価と言えるでしょう。

 こうした面白さの中でもっとも重要な要素を担っているのは、以下の点です。

「キャラクター同士の意思が交錯し、どちらが勝つか読めず拮抗している状態」

 宮崎駿作品の根底では、以下のようなルールが背景で共有されていると考えます。

  1. 場面内で最も意志の強い者の行動が物語を駆動させる権利を持つ
  2. 意志の強さが同格であった場合はより強い力をもつ側が勝つ
  3. 意思の弱い者、覚悟なき者はどんなに行動力があっても物語を変化させられないので背景にしかならない

 意志の強い人間がその場の展開を進めることができ、意志の強さが互角の場合はもっとも力が強いものがその場の流れを持っていく。そして意思も力も互いに拮抗したとき、そこで「展開が読めない」という表現で面白さを称える評価が与えられるのだと思います。

 歴史的に結末が決まっている大河ドラマが面白かったり、「今年こそ西軍が勝つんじゃないか.....?」というジョークが出るのも、キャラクターとして描写されている意思の強さが同格で拮抗していることから生まれている魅力と言えるでしょう。

 

 また、意思が強く、妥当で、行動に一貫性があるならば、キャラクターの失敗が描かれても観客側の不快感が少ない、というメリットもあります。キャラクターが意思に基づく行動選択の末、結果的に「失敗」したとしても、それに一貫性があるならば「愚行」として受け手は受け取らないのだと思います。意思に従い努力した結果失敗したものについては、否定的な印象を残しにくいのだと思います。

[例]

  • 逃げ場のない場所でパズーを助ける目的で行われた、シータのムスカに対する体当たり
  • クシャナによる早すぎる巨神兵の起動
  • ペジテによって行われた、ペジテ市を蟲たちに襲わせる計画
  • ナウシカが救出できなかったラステル
  • 腐海の奥でアスベルを救出した際に蟲の尾に当たって気絶するナウシカ

2. 複数のストーリーを同時に動かす

交錯するときに面白さが生まれる

 複数のキャラクターたちが強い意思を持ち、互いの思惑が交錯しながら展開が進む時、そこに複数のストーリーが生まれます。この同時に進むストーリーが多ければ多いほど、展開の密度が上がりテンポが良くなり、そして面白さが濃縮されて行きます。

 「このストーリーで一本話が書けるな」と思える濃度の物語を一つの作品内に同時複数投入するのがポイントだと考えます。また、展開が盛り上がる場所ではその複数のストーリーが同時に交錯するととても白熱する場面になると言えます。

[例1]軍の要塞からのシータ救出作戦の場面

  1. ムスカと軍の抗争
  2. 石と石の呪文を求めるムスカ
  3. シータを助けにいくパズー
  4. 軍とドーラ一家の衝突
  5. シータを助けたいロボット

[例2]ナウシカの本編における大まかな筋書き

トップガンマーヴェリックに対する褒め言葉として、「映画1本に映画n本分の面白さが入っていた(トップガンエスコンライトスタッフバトルシップスター・ウォーズEP4、スペースカウボーイ、エネミー・ライン紅の豚、etc.....)」といった評価がありますが、それもまた同じことを指していると私は考えています。

展開のテンポを上げる

(1)同時に走っているストーリーを垣間見せる

 物語のピークで思惑がぶつかるのは見せ場になりますが、それ以前でも、「並行していくつかの思惑が動いている」ことを示すのは重要です。例えば、シータを追っている組織が2つあることを示すなど。

 一つの場面を丁寧に書き続けているとそこでテンポがダレてしまいます。なので、途中で別な思惑を持つものが途中からカットインしてくることによって、展開がダレずに次に進めることができます。

(2)神出鬼没なキャラは動かしやすい

 意志の強ささえ説得力を持って描けるならば、たとえそのキャラが神出鬼没であっても成立します。

 そして、どこにでも突然現れてもおかしくないような行動力のあるキャラクターが居てくれると、そのキャラのちからによって一旦閉塞したストーリーを強引に推し進めていくことができます。(例: ドーラ、王蟲、不二子やルパン、ポニョなど)

(3)察しのよいキャラは解説役にできる

 複雑な展開が起きる時、最初に予兆に気づくような察しの良いキャラがいると、観客に「これから何かが始まる」という予告を与えることができます。動物(テト、ヤックル、山犬など)や勘のいい人物(大婆様、ドーラなど)などがそのポジションにいます。ちなみにナウシカの場合はテレパスで察知しているのでだいぶ察するのが早いです。

 そして、その察した人物が何かを解説してくれると、展開の描写がやりやすくなります。

[例]

  • 大婆様の、「大気が怒りに満ちておる......」や「古き言い伝えは真であった......!」など
  • ドーラの、「あれが飛行石の力だよ!」など

※一応、ポムじいさんも解説ポジションにいるキャラと私は考えています。

 

n. そのほか

観客の感情をコントロールする

 各キャラクターを描く場合、観客がどのキャラを好きになっていくかを把握した上で描写していく。受け手がキャラクターに対してどんな感情を抱くか、親近感を持つか。そこを含めて作り手はストーリーを操縦する必要がある。

 ギャグパートや日常パート、すぐに弱音を吐くなどの場面は観客に親近感や好感をもたらす。

 一方で、プライベートが見えにくく、サングラスやゴーグルによって価値観が見えづらい場合は、そのキャラの思考や価値観、動機が見えにくくなり、観客からの心理的距離感は遠くなる。

※映画「E.T.」において、大人たちの顔がラストシーンまで見えにくい状態に保たれているのも近い作劇意図があると私は考えます。

 

以下、思いつき次第、随時更新予定。