映画大好き2歳児の話

 我が家には2020年生まれの子供がいます。この子はこの記事を書いている時点で2歳6ヶ月です。とても映画が好きで、2時間集中して見続けていることもあります。

 この記事は、そんなうちの2歳児についての記録を残すためのものです。エピソードが追加され次第追記します。

1. お気に入り作品リスト

 2022年9月27日現在での、うちの子が見たことのある映画の好感度について、下記リストにまとめてみました。

用語解説

A: カタログ収載済み

 我が家では、言葉の拙い2歳児でも好きな映画を指定できるようにと、上映映画を手作りのカタログから選ぶ方式にしています。映画のポスターや作中の場面を印刷したものをファイルにして、どんな作品か、どんなキャラクターが出てくるかを視覚的に識別できるようにしています。

 ○: そのカタログに収録している作品。指差しで指定できるもの。

 ー: まだカタログに含められていない映画。子供が言葉等で指定した場合に上映する。

B: 何度も見る作品

 一度子供に見せた後、繰り返し繰り返し見たがるようになった作品です。

◎: 再生の要求頻度が高い作品。一日に何周も、連日見ることもある

○: 時折見たがる作品

△: 自分から指定して見たがるときもあるが、飽きている時間が長い

ー: 「これが見たい」と自ら指定してくることがない

 

全: 全編を通しで見続けるほど集中して見ている作品

部: 好きな部分だけを繰り返し見たがる作品。他のシーンは遊びながら暇つぶしをして、好きなシーンが来るのを待っている。

 

C: 親のお気に入り

 親が気に入っている作品。子供の「好き」と、程度が重なっている作品も少なくないですが、親が好きでも子供が全然見たがらない作品も少なくありません(特に初期のディズニーアニメ等)。

 

2. 子どもの発達具合

 2歳半時点での子供の発達具合と、それが映画鑑賞中にどのように表れるかについて列挙します。

(1)認識

  • 自分のわかるもの、知っているものが作中に出てくると指差しで教えてくれる(カラスがいた、セミが鳴いている、魚が泳いでいる、等)
  • 動作を真似する(キャラクターの動きの真似、ぬいぐるみやおもちゃなどを使ったシーンの再現など)
  • 感情の言語化:物言わぬキャラクター(動物やロボットなど)が感じている感情を推測し、それを言語化する(「こわい」「待って」「どこかな〜?」等)
  • 同じ食べ物を食べたがる(ハム、りんご等)
  • 台詞の暗唱:全てを真似することはできないが、キャラクターと同じタイミングで同じセリフの音を発することがある(暗記していないと重ねることはできないタイミングで話す)

(2)表現

  • 言葉の理解度、名詞の認識している数の多さはある程度保たれている様子があるが、発音にやや稚拙さを抱えている。
  • 発することができる音の組み合わせと速度に限界があり、流暢に話すことができない。
  • ジェスチャーや歌(メロディ)、ぬいぐるみやおもちゃ、指差しなどにより、自分が認識している内容をアピールしてくる。
  • 目の前で指し示せるモノが存在していると、それを名詞の代わりとして使用し、自分が伝えたい内容を伝えることができる。
発音の稚拙さの例
  • パンダ→「ぱん」
  • トトロ→「とと」
  • ルパン→「んぱん」
  • テト→「ぇと」
  • ウォーリー→「ぉーぃー」
  • ポニョ→「ぉぬょ」
  • リサ→「ぃしゃ」
  • カーチス→「あーちしゅ」
  • R2-D2→「あーちゅー」
  • BB-8→「びーびー」
  • Highway to the danger zone→「あーべー んーじゃー んじょーん」
  • 「やーいおまえんち、おっばけやーしきー」→「きー」
  • 「待ってー」→「あってー」
  • 「怖い」→「ぉわい」
  • 「あれー?」→「あぇー?」
  • 「飛行機は美しい夢だ」→「っこーぃ、っくぃー、んぇだ!」

(3)日常生活への反映

ぬいぐるみ・おもちゃ遊び

ジブリ宮崎駿系】

  • 子供-パンダのぬいぐるみ-ママの並びで手をつないで並び、足踏みをして「パンダコパンダ」のOP映像の真似
  • 逆立ちをして「パンダコパンダ」のミミコの真似
  • トトロのどんどこ踊り
  • 白い布を持ってぶんぶん振って、MAMMA AIUTOが降参するシーンの真似
  • 痛い思いをした時に、テトのぬいぐるみにペロペロ舐めてもらうと元気になる。
  • 紐がついたぬいぐるみをぐるぐる回してナウシカの真似
  • 肩や胸元にテトのぬいぐるみを置く
  • チコの実の代わりにアラザンを手に乗せて食べる。テトのぬいぐるみにも食べさせる。
  • メーヴェで飛んでるマネをしたくて親に持ち上げてもらう
  • ポニョのハムのシーンを見ながらハム(ビアソーセージ)を食べる
  • お花を差し出すマネをしてロボット兵のマネ
  • FIAT500のミニカーを持って壁を走らせながら、「カリオストロの城」の真似

トップガン

  • トップガン」「トップガンマーヴェリック」に出てくる、F-14、F-18、P-51、ダークスターを見分け/使い分けて遊んでいる
  • F-18でコブラ機動の真似
  • 飛行機のおもちゃを旋回させるときは 外周側をより高く飛ばす真似をして遊ぶ
  • F-18二台持ちで背面合わせの真似(なお尾翼を持ってしまうので同じ方向ではなく互い違いになりがち)
  • ビーチバレーのシーンでアイスマンのボール回しのマネ
  • パパお手製のマーヴェリック風フライトジャケットにサングラスをして自転車にまたがり遊び回る(マーヴェリックの飛行場でバイクに乗るシーンのマネ)

【洋画系】

お風呂でのごっこ遊び
音楽について
  • 車に乗るとまず最初にリクエストしてくる曲が「スターウォーズのテーマ」
  • 主題歌以外でも、サントラを聞くと作品名を言い当ててくる
  • 楽器でサントラのメロディを演奏すると作品名を言い当ててくる
  • サウンドトラックやイメージソング、テーマ曲でも一緒に歌える範囲で歌おうとする

【音楽を把握している作品と、曲名】

航空科学館での様子
  • 行きの新幹線よりも航空科学館の中のほうが興奮の仕方が数十倍やばい。
  • 5時間ずっと興奮しっぱなしで走り回る。
  • 展示してある飛行機と似たおもちゃを持っているとそれを取り出して見比べる。
  • アメリカ軍人の家族に話しかけられ、返事はできなかったが、自らF-18のおもちゃを選んで取り出して差し出す。
  • 実物展示機のコックピットに座りたがる(コロナ対策のため実機搭乗は不可)。
  • 飛行機のコックピット体験スペースでずっと座りたがり、操縦桿を絶対に手放そうとしない。何度引き剥がしても戻って来る。他の子が居ないことを確認するとすぐ座ろうとする。
  • 操縦席に座るときは、マーヴェリック仕様のフライトジャケット(父の手作り)を着て乗りたい、と希望してくる。
  • フライトシミュレーターなどの操縦席に座るときは絶対に一人がいい。ママが一緒に座るのは嫌。
  • 風立ちぬ」の九試単座戦闘機の模型が展示されているのを目撃して、初めて親に対して「ほーしーい!」と叫ぶ(なお、お土産屋さんにも航空機のおもちゃはたくさんあったがそれらに対しては「ほしい」と言わなかった)
  • 航空科学館から帰宅してすぐに「風立ちぬ」が見たいとリクエストし、カプローニの「飛行機は美しい夢だ」という台詞の後に、嬉々としてママに向かってその台詞を何度も復唱していた。
  • 帰宅後「風立ちぬ」を2周見る。

3. 映画以外に与えているコンテンツ

 「映画ばかり見せているから映画を好きになったのでは?」と思われるかもしれませんが、我が家では映画を見せるようになる以前から、他の作品も見せています。そもそもyoutube kidsについては、一番低年齢に設定して自由閲覧状態にしてあります。本人が自由に操作できるスマホおよびタブレットを用意しており、本人のリクエストで番組を検索、上映することもあります。

 上記は本人が希望すれば準備して見せていますし、こちらからそれらを見るかを提示し確認する場合もあります。

 しかしながら現状、こうしたコンテンツを見せても、本人から強く希望される頻度が高いのは、前述した映画たちであることのほうが圧倒的に多いです。

4. 親の趣味との乖離

 我が家はもともと映画好きの夫婦です。そのため自宅には簡易的な70インチのホームシアターシステムがあり、子供が映画を見る際は主にそこで見ています。なお、ソフトがブルーレイではないトップガンマーヴェリック、ジュラシックパークジョーズ等は子ども用タブレットでも閲覧できるようになっています。

 子供が親の趣味と共通の趣味を持つ、というと、以下のような仮説が浮かぶかと思われます。

  • 親がそればかり見せているからそれを好きになったのではないか?(選択肢の制限)
  • 親が楽しそうに夢中になってそれを見ているから、理解したくなってそれを見るようになったのではないか?(興味が誘導されているパターン)
  • 親に話を合わせたくて一緒に見ているのではないか?親がそれでしか遊んでくれない、喜んでくれないからではないか?(親に気を使っているパターン)

 しかしながら、前述の表をよく見ていただくとおわかりいただけるかと思いますが、親が夢中になり、熱く語り合うほど好きな作品であっても、子ども自身が全く興味を示さないという作品もいくつかあります。中には、そうした作品の上映中に子供から上映作品の変更を指定される場合もあるほどです。

 親が子供に対して、映画の内容を説明したり、そこに登場している動物などについて注意を引いたりなどしても、全く興味を持たない場合さえあります。

 その一方で、親がすごく熱中してみているわけでもない作品を、子供が好んで見ていることもあります。親が予め見ることを止めるよう声がけをする作品であっても、押し切って見たがる作品もあります(例: ジョーズ)。ジョーズについては、本人はホオジロザメのシーンが大好きで、ホオジロザメのぬいぐるみを持って映画と一緒にごっこ遊びをしながら夢中になって見ています。

 

 このことから、この子における映画に対する「好き」は、かなり子供個人の中で独立して生じている感情なのではないか、と私達は推測しています。

「WALL-E」エンディング考察 - 「ラピュタ」「ナウシカ」「2001」との比較

 PixarによるフルCGアニメ映画「WALL-E(2008)」のエンディングに関する考察です。主に、地球と人間、ロボットとの関係性について、「天空の城ラピュタ(1986)」や「風の谷のナウシカ(1984)」、「2001年宇宙の旅(1968)」からの影響なども含めて考察しています。

※「HELLO, DOLLY!」との関連については、別記事で記載しています

→(書き終わったらリンクを貼り付け予定)

0. WALL-Eのあらすじ

 まだ映画「WALL-E(2008)」を見ていない方、また、見たけれども人間とロボットの関係についてうろ覚え、という方は以下の記事を参照してください。

mymemoblog.hatenadiary.com

1. エンディングの描写について記載

 WALL-Eたち含むAxiomの乗員たちは地球に降り立ちます。そして未だゴミまみれの大地に、EVEとWALL-Eが守り抜いた植物の苗を植えて、栽培をしようと意気込みます。

 その背景には、数多の植物が生い茂りつつある.....という引きの画面で、エンディングとなります。ライターを灯す音と共にエンディング曲の「Down To Earth」が流れ、エンディングアニメーションが映し出されます。まずは、こちらのアニメーションについて振り返ります。

エンディングアニメーション

  1. 単色で描かれた洞窟壁画調のタッチ。Axiomが地球へ帰還し、艦長の指揮のもと苗を植える様子。ロボットが火をおこし、男女は赤ん坊を抱えている。
  2. エジプトの壁画風のタッチ。Axiomの脱出用ポッドから現れ、Axiom艦内で使用されていたドリンクをサーブする人物。脱出用ポッドから降りて火の周りに集まってくる。
  3. 引き続きエジプトの壁画風のタッチ。艦長の指揮のもと、EVEが井戸を掘削。
  4. 古代ギリシャの壷絵風のタッチ。灌漑で作った水路を元に、ロボットと人が協力して農業を行っている様子。麦やブドウが栽培される。
  5. モザイクタイル風のタッチ。海に魚やウミガメたちが戻ってくる。
  6. 鉛筆画風のタッチ。豊かな川の流れの中でロボットと共に網で魚を捕る人間の様子。
  7. 引き続き鉛筆画風のタッチ。ロボットと共存しながら、背景には建築物も見られる。人間は未だ肥満体だが、手足が正常の長さに戻っている。魚を売り買いする人々の様子。
  8. 水彩画のタッチに。ロボットと協力しながら、足場を組みレンガ積みの建物を建てる人々の様子。
  9. 厚塗りの油彩タッチに変化。建築物はさらに増える。海にはヨットが浮かぶ。
  10. 印象派の点描画風のタッチ。子どもたちは野を駆け回り、水辺で釣りをする人物。水面にはいくつものヨットが浮かび、遠景には草むしたAxiomの姿。
  11. 印象派の油彩画風のタッチ。あふれるほど咲き誇る花々。ミツバチや青い鳥の姿。
  12. 印象派の油彩画風のタッチ。大きな木が育った傍に、二人寄り添っているWALL-EとEVEの姿。この木は、艦長が地上に降り立って最初に植えた苗から伸びている。

 上記のような場面が映し出された後、スタッフロールへと続きます。

歴史と連動する絵柄の変化

  • 単色で描かれた洞窟壁画調のタッチは、おそらくラスコーがモデル。ラスコーの洞窟絵は約4万年前に描かれたもの。
  • エジプトの壁画風のタッチは、元となったエジプト壁画の時期を考慮すると、紀元前2000年頃の絵を参考にしている。
  • 古代ギリシャの壷絵風のタッチは、特に体を黒く書いていることから、モデルとなったのは黒絵式の壷絵と推測される。これは紀元前620年頃の絵柄。
  • モザイクタイル風のタッチは、おそらく古代ギリシャ古代ローマ頃に使用されていたモザイクタイルがモデルとなっている。これは時期がかなり開いてしまうが、時代が徐々に下るように組まれていることを考慮すると、おそらく紀元前400年以降を意識していると思われる。
  • 鉛筆画風に至るまでの間がかなり空いている。鉛筆画に関しては元の画風の推測が困難。
  • 水彩画もモデル不明。
  • 厚塗りの油彩画風もモデル不明。
  • 印象派の点描画風のタッチは、おそらくモデルとなっているのはジョルジュ・スーラの画風。19世紀後半の画家。
  • 印象派の油彩画風のタッチは、クロード・モネに近い。19世紀後半から20世紀初頭の画家。

 上記のように、Axiomを降りたあとの人々の生活と、少しずつ自然が回復していく姿、文明が再び発展していく姿が歴史をなぞるように描かれています。またその時代が下っていく様子を、画風を変化させることで、画風の歴史に沿って表していると言えます。

2. 作中の地球と宇宙について振り返り

WALL-Eが住む地球

  • ゴミが地球上の表面を多い、植物がほぼ生えていない(=砂漠に近い天候?)
  • 大気汚染が激しく、青空は見えない
  • 激しい嵐が時折やってくるので、建物内に身を隠す必要がある。この嵐はおそらく、砂漠に吹くハブーブ(haboob)のようなもの。
  • 作中の時代は、おそらく2800年代ごろ(2110年から約700年後)

※宇宙間で地球-Axiomの間を移動している間にどれほどの速度で移動してどれだけの年数が経ったのかの詳細は不明。おそらく数十年の誤差ではなく、数年前後と思われる。

地球上のロボット

  • WALL-Eは「Waste Allocation Load Lifter Earth cleaner」の略称。
  • ソーラー発電で駆動し、理論上はほぼ永続的に行動できる。
  • 地球上には無数のWALL-Eが居たが、いずれも機能停止してしまい、現在稼働しているのは1台(=主人公)のみ。
  • 機能停止した他のWALL-Eのパーツをかき集めて、共食い整備をしながら主人公は動き続けている。
  • WALL-Eが集めたゴミを処理する巨大ロボットなども存在したが、現在は稼働していない。
  • もともとは5年の地球浄化作戦だったため、700年も経つうちに殆どのロボットが動かなくなったと考えられる。

地球浄化作戦

  • 世界大統領により多量のゴミについて緊急事態宣言が発令される。
  • その解決策として打ち出されたのが、宇宙への一時的な移住と、WALL-Eたちを使用した「地球浄化作戦」。
  • 世界大統領が「5年間の豪華クルーズ」と宣伝していたこと、Axiom艦長が「5年の旅に出て700年目、25万5642日目」と語っていることから、おそらく本来は5年で終了する計画だった。
  • 2110年(おそらく地球浄化作戦を開始してすぐの頃、700年後から見ると誤差の範囲。10年以内程度?)に、地球浄化作戦は失敗と判断される。世界大統領から全Axiomのオートパイロットに対して「Do not return to Earth(A113)」が発令される。

Axiom

  • 人間のための居住性に特化した宇宙船。5年間の航行の予定だったはずだが、700年経過しても問題なく稼働している。
  • 複数のAxiomが地球から飛び立った(劇中のCMより)。しかし、劇中に登場するのは1隻のみ。
  • その後、地球上に植物が増えても他のAxiomも地球に降りてきた様子はエンディングでも描写されていない

3. 「天空の城ラピュタ」との比較

(1)筋書きの比較

 「天空の城ラピュタ(1986)」との共通点に着目してみると、以下のようになります。

  • 一人で暮らしている男の子(パズー/WALL-E)のもとに空から女の子(シータ/EVE)がやってくる。
  • 女の子は物語の鍵を握る大切なもの(飛行石/植物の苗)を持っている。
  • 二人は空に浮かぶ立派な場所(ラピュタ/Axiom)へと移動する。
  • その場所で敵(ムスカ/AUTO)と大切なもの(飛行石/植物の苗)の奪い合いになる。
  • 二人で大切なもの(飛行石/植物の苗)の秘められた力(バルス/地球帰還プログラム)を発動する。
  • 二人で地上に戻ってきて、一緒に暮らす。

 このように、実は「WALL-E(2008)」と「天空の城ラピュタ(1986)」は大筋がよく似ているのです。これはおそらくオマージュか、かなり意識して作ったと考えてよさそうです。他の点もそうですが、「WALL-E(2008)」はいくつかの宮崎駿作品を考慮して作っていると考えられます。

 また、筋書きだけではなく、「眉間からビームを出して焼き切る」という機能の点もWALL-Eとロボット兵の共通点となっています。

(2)「Down To Earth」と「ゴンドアの谷の歌」

 「WALL-E(2008)」のエンディング曲は「Down to Earth」という曲です。このDown to Earthというタイトルは、本来の意味は「地に足のついた」というニュアンスの語ですが、ここでは作中の「宇宙から地球に戻ってくる」という展開も含めて込められたタイトルとなっています。このエンディング曲は字幕版で和訳が付いていません。和訳についてはこちらのウェブサイトに詳しく記載されています。

Down To Earth(ダウン・トゥ・アース)英語歌詞の和訳と解説|ウォーリー

 今回私は、この歌のサビの部分と、「天空の城ラピュタ(1986)」の作中でシータが言及する「ゴンドアの谷の歌」について比較したいと思います。

日本語版の「ゴンドアの谷の歌」

 「天空の城ラピュタ(1986)」で、ラピュタ復活を目論むムスカによって玉座の間に追い詰められたシータは、以下のようなセリフで応えます。

「今は、ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。
土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。』
どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」

北米字幕版

 北米版の英語字幕では、この「ゴンドアの谷の歌」は以下のように翻訳されています。

This is why Laputa died out. There's a song in my valley...

Put down your roots in the soil,

Live together with the wind.

Pass the winter with the seeds, 

sing in the spring with the birds.

Your weapons may be powerfil. Your pitiful robots may be many. 

But you can't survive apart from the Earth.

北米吹替版

 北米版の吹替版はさらにセリフが異なっています。

Now I understand why the people of Laputa vanished. There is a song from my home in the Valley of Gondoa that explains everything. It says

Take root in the ground,

live in harmony with the wind,

plant your seeds in the winter,

and rejoice with the birds in the coming of spring.” 

No matter how many weapons you have, no matter how great your technology might be, the world cannot live without love.

※この赤字で強調した部分の、英語吹替版で「愛なしには生きられない」と翻訳されてしまっている問題点については、こちらのブログやアマゾンのレビューで議論されています。

今更「天空の城ラピュタ」の名シーンの英訳について考える | つれづれ日記 deux

Spectacular Ghibli film in original Japanese, atrocious dub and sub

Down to Earth

 一方、「WALL-E(2008)」の「Down to Earth」のサビの歌詞は以下のようになっています。この曲ではこのサビを何度も繰り返し歌います。

We're coming down to the ground
There's no better place to go
We've got snow up on the mountains
We've got rivers down below
We're coming down to the ground
We hear the birds sing in the trees
And the land will be looked after
We send the seeds out in the breeze

 ぱっと見た範囲でキーワードとして共通する点を強調してみましたが、この歌詞もまた「ゴンドアの谷の歌」をかなり意識していることがわかるかと思います。

共通点

 「Down to Earth」の歌詞と「ゴンドアの谷の歌」の日本語、英語字幕、英語吹き替えの似たセンテンスを並べて比較してみます。

We're coming down to the ground, There's no better place to go

→土に根をおろし/ Put down your roots in the soil(字幕)/ Take root in the ground(吹替)

 

We hear the birds sing in the trees

→鳥と共に春を歌おう/ sing in the spring with the birds /rejoice with the birds in the coming of spring.

 

We send the seeds out in the breeze

→風と共に生きよう/Live together with the wind(字幕)/ live in harmony with the wind(吹替)

→種と共に冬を越え/Pass the winter with the seeds(字幕)/ plant your seeds in the winter(吹替)

 

 全く同じ意味を歌っているわけではありませんが、「地上に降りてくる理由」「地上で大切にすべきもの」についてキーワードとして使用しているもの(土、鳥、風、種)が共通しています。やはり、「WALL-E」という作品はかなり「天空の城ラピュタ」を意識して作ったのでは?と私は考えています。

 また、Pixarのスタッフはおそらく、英語字幕版か英語吹き替え版を見て参照したのでは?と考えましたので、今回は英語版との比較を用意してみました。

 

 また、ゴンドアの谷の歌ではありませんが、その後に続くシータのセリフ

「土から離れては生きられないのよ!(英語字幕: But you can't survive apart from the Earth!)」

ですが、ここもまた曲名である「Down to Earth」につながっている要素であると私は考えます。

(3)ラピュタのこたえとの比較

 では、Pixarのスタッフは「天空の城ラピュタ」から要素だけを借りて作ったのでしょうか?その点についても考えてみたいと思います。

「土から離れては生きられない」

 先程も記載したように、シータはムスカと対峙するシーンで、ゴンドアの谷の歌を引用した後に以下のセリフを叫びます。

どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!

(英語字幕: Your weapons may be powerfil. Your pitiful robots may be many. But you can't survive apart from the Earth.)

(英語吹替:  No matter how many weapons you have, no matter how great your technology might be, the world cannot live without love.)

 ラピュタのほうは、この「生きる」について英語字幕ではsurvive、英語吹替ではliveと表現されています。ここのセリフの翻訳については、字幕版のほうが比較的マシな翻訳になっています(吹替はセリフが違いすぎる......)。

  ここと対になるのは、おそらくAxiom艦長がAUTOに対して叫んだこのセリフでしょう。

AUTO「ここだと生き残れます(On the Axiom you will survive.)」
艦長「生き残るよりも生きたい!( I DON'T WANT TO SURVIVE! I WANT TO LIVE!)」

 ラピュタ人の末裔でありながら、地上に降りて土と共に生きてきたシータは、「土からは離れては生きていけない」というニュアンスで語っています。その一方、これまで地上で生きたことがない艦長は、「土と共に生きたい」というニュアンスが含まれています。このスタンスの違いは、エンディングの描写にもかなり大きく影響していると私は考えます(詳細後述)。

「たくさんのかわいそうなロボット」

 ところで、シータが言う「たくさんのかわいそうなロボットを操っても」というセリフは、WALL-E本編の内容にも関わってくるものと考えます。というか、これがWALL-Eという作品の出発点にもなっていそうなくらい、重要なセリフと私は考えます。

 シータの言う「かわいそう」の範囲はおそらく、「ラピュタ」における無残に殺されていった数多のロボット兵ばかりではなく、園庭のロボット(下図)も指していると考えられます。主人を喪ってもなお働き続け、目的を失いながらもその役目を全うしようとするロボットたちの姿を指しているのではないでしょうか。

 「WALL-E」で描かれているロボットのうち、地球上で荒廃し機能停止してしまった他のWALL-Eたちや他のロボットたちは、上図の機能停止した園庭ロボットの姿とも重なります。また、自分たちの仕事内容に縛られ続け、異なる行動を行ってしまうとAxiom内の「修理室(Repair Ward)」に送られてしまうことも、「かわいそうなロボット」に含まれるのでしょう。

「好き」という異常(エラー)

 地球でただひとり生き残り、ロボットとしては"異常"な、好きなモノを愛して生きるようなWALL-Eの側面も、Axiom内の基準では「修理行き」になりうるのです。故に、EVEが修理してしまったWALL-Eは、一時的に"異常"が消え、モノやEVEへの愛情、愛着を失ってしまう描写がされています。

 Axiom艦内の修理室に隔離されていた"異常"なロボットたちもまた、WALL-Eと同様の「好き」を持ってしまったロボットなのではないでしょうか。「好きな色を塗りたい」、「ロボットにお化粧をしたい」というような自由意思は、修理行きとなってしまい、Axiomのロボットたちには許されていないのです。そんな彼らがWALL-Eが愛した歌を好み、一緒に歌ったというのも、「何かを好きになる」という"異常(エラー)"を抱えていたからでしょう。

 だからこそ、彼らはエンディング直前のシーンで、彼らたちが寄り添って描かれていたのかもしれません。"異常(エラー)"を抱えてしまい、本来であれば修理に回され、その獲得した"異常(エラー)"=個性を消されてしまうはずだった、「かわいそうなロボット」たち。そんな彼らも、Axiomから開放され自由になり、互いに寄り添って生きていけば、「かわいそう」ではなくなる、とPixarは考えたのかもしれません。

 

 なお、このWALL-Eが抱えていた"異常"については、次の「ナウシカ」との話にもつながってくるものであると私は考えます。

4. 「風の谷のナウシカ」と比較

 上記で「ラピュタとの類似性」について語りましたが、この作品の背景設定については「ナウシカにも近い」といえる部分があります。

mymemoblog.hatenadiary.com

なお、私の中でのナウシカの考察は上記にまとまっています。

(1)背景設定の比較

  • 人間の手によって汚染(火の七日間/ 地球がゴミまみれ)が進み、大気も汚染され(瘴気 / 空気汚染)、居住可能な場所が減った世界。
  • 汚染された地球の浄化が進められる(腐海の森による浄化/ WALL-Eによるごみ処理)。
  • 長期間(1000年/700年)経過し、植物の芽が生えた(アニメ版では腐海の底のチコの芽 / WALL-Eの見つけた苗)ため、次の住む場所(腐海の底=蒼き清浄の地 / 地球)が決まる。

 前章ではWALL-EとEVEをめぐるメインストーリーは「天空の城ラピュタ」に類似していることを指摘しました。その一方で上記のように、地球の汚染やその浄化に関する描写はむしろ「風の谷のナウシカ」のほうに類似していることがわかります。こちらもやはり、荒廃世界ものという共通のミームを参照しているという点だけでなく、主人公の立ち位置も含めて、ある程度意識して作っていると考えられます。

(2)主人公が抱えている"異常"と、築いた絆

 私は以前のナウシカ考察のブログで、「ナウシカにはテレパス能力があった」という推測をしています。この能力を持っている人間はアニメ版には他に存在していません。いわば、このテレパス能力は「風の谷のナウシカ」における"異常"な能力なのです。

 ナウシカはこのテレパス能力によって蟲や生き物たちと心を通わせ合うことで、人々が恐れる蟲を愛し、信頼関係を築き上げました。そしてその信頼関係によって、ナウシカは最終的に、自分の身を犠牲にしてでも、人々を蟲の暴走から守っています*1ナウシカは人と蟲との間を取り持ち絆を結ぶ存在として描かれているのです。また、ナウシカは人々に「次に居住できる場所」を導く存在としても描かれています。

 

 WALL-Eもまた、前章で述べたように、「モノを愛する、愛着を持つ」という"異常"を持っています。本来であればこの機能はロボットには備わっておらず、修理室送りとなってしまう機能であり、そして修理されるとそれは消えてしまいます。

 この"異常"を持っていたからこそ、WALL-Eは「ロボットとして与えられた自分の使命を手放してでも」、EVEと一緒にいるために地球を離れる決心をすることができました。

※この「使命を手放して愛に生きる」点については、別記事の「HELLO, DOLLY!」との話にもリンクします。

 そうしてWALL-EがAxiomに乗り込んだことにより、バーチャル越しでのやり取りしかしない無関心な人間ばかりだった環境に、「互いに興味をもたせ」「地球に興味をもたせ」るような変化をもたらしました。つまり、WALL-EがAxiomの中を動き回ったことにより、人間たちもまた、人への愛、地球への愛、そしてロボットへの愛(WALL-Eの損傷を悼む等)、を抱くようになったのです。また、WALL-Eは最終的に、その身を犠牲にしてでも地球に帰ることをやりとげようとします。

 WALL-Eは、人とロボットの間に信頼関係と愛を築き上げたのです。WALL-Eもまたナウシカと同様に、人とロボットの間を取り持ち絆を結ぶ存在として描かれているのです。そして愛したものの愛によって死から蘇ることもナウシカと共通しています。

 加えて、そもそも「WALL-E」の物語は、WALL-Eが植物の苗を見つけたことから始まっています。これもまたナウシカ同様に、人々に「次に居住できる場所」を導く存在としても描かれています。

 

 下記に、ナウシカとWALL-Eの共通点を記載します。

  • "異常"な能力(テレパス / モノへの愛着)の獲得により、愛するもの(蟲たち / EVE)への愛情を抱く。
  • 異なる者同士(蟲と人 / ロボットと人)との間に絆を結ぶ。
  • 構築された信頼関係を信じた上で、自分の身を犠牲にして目的を果たす(谷の人を守る / 地球への帰還を果たす)。
  • 愛したもの(王蟲 / EVE)から愛されることによって、死から復活する。
  • 次の移住先(蒼き清浄の地 / 地球)へと導く。

 

 よって、PixarはWALL-E制作にあたり、「劇場版ナウシカ」のこともかなり研究したのだろう、と私は考えています。

5. 「2001年宇宙の旅」からの考察

共通点

 この「WALL-E」という作品は明らかに「2001年宇宙の旅(1968)」も意識しています。以下に重要なシーンにおける共通点を記載します。

  • 無機質な声で話す"赤い一つ目"を持つAIが船を操縦し支配している(HAL9000/ AUTO)。
  • このAIは人間から、本来の指示(乗員と協力して木星を探査せよ/ 植物を見つけたら地球へ帰還せよ)と矛盾する極秘の指令(乗員にモノリスのことを話すな/ 地球へ帰還するな)を受け取っていた。
  • このためAIは適切な行動を選択できなくなり、解決するために結果的に人間に対して危害を加えてしまう(船員の殺害/ 艦長の監禁等)。
  • 人間は、そのAIのスイッチを切ることによってAIの暴走を食い止める。

 「WALL-E」では人間はロボットとそれなりに共存・協力しながら地球に降りることができましたが、「2001年宇宙の旅」では殺し合いとなってしまっています。あくまで「WALL-E」は子供向け......と言いたくなるところではありますが、ここから連想できる点が見えてきます。

他のAxiomたち

 Axiomに関する概要については、「2. 作中の地球と宇宙について振り返り」でも記載しました。

 本来であれば複数のAxiomが地球から飛び立っているにも関わらず、地球に戻ってきたと思しきAxiomは作中の一隻のみです。植物がこれだけ繁茂しているにも関わらず、他のAxiomのEVEが探査に来ている様子も見られません。エンディングまで含めても描かれていません。

 続けようと思えば700年も航行を続けられるシステムが搭載されているAxiomが機能しなくなるとすれば、それは内部から崩壊・破綻してしまった可能性が考慮されます。

 この情報を、「2001年宇宙の旅」の展開と重ねて考慮すると、いくつかの可能性が浮かんできます。

他のAxiomたちの顛末(推測)

 「地球に帰還するな」という極秘命令に従い、未だ宇宙で「地球で植物が見つかった」という事実を秘匿し続けているAUTOがいるかもしれません。あるいは、そもそも植物探査ロボットEVEを地球に派遣していない場合も有りえます。

 「地球に帰還するな」という極秘命令を受け取ったAUTOが、作中のAUTOと同様に、「発見された植物の苗を極秘に消滅させる」という対応を取らなかった可能性があります。もっと過激な方法――例えば、そもそも帰還させる必要のある人類を"処分"する、という場合もありうるでしょう。その場合は、船内における人間の"飼育"を中断すればよいだけで済みます。

 もしくは、「5年経っても地球に帰れない」ことに疑問を持った人間が乗った船で、人間側の反乱などが起きたり、作中のように無理やり地球に戻ろうとした人類が居た可能性もあります。そのような「極秘命令に反する人類」が多数発生した場合.....これもまた、ロボットやAIとの衝突になるでしょう。

 作中のように植物が発見されていたとしても、WALL-Eという「地球と宇宙をつなぐ存在」「人とロボットをつなぐ存在」が不在のままであれば、人とロボットが協力して地球に帰ろうとする、という動きにはつながらなかったと考えられます。

 「WALL-E」という作品において、「人間から矛盾する極秘命令を受け取ったAIが、人間の命綱を握っている」という状況が「2001年宇宙の旅」と重なっていることから、その顛末、つまり「AIが人間を殺してしまうことで解決しようとする」ことの可能性が残り続けるのです。

「汚染レベルが高いため、地球に住むことはできない (rising toxicity levels have made life unsustainable on Earth.)。」

「地球には戻るな(Do not return to Earth)」

 このような説明と指示を受け取っているオートパイロットから見れば、「住むことができない地球に戻ろうとする人類」は、「遅かれ早かれ死亡してしまう」存在に見えることでしょう。そのため、結末が同じならば殺害する......という選択肢を選んだAUTOが居ても不思議ではないと私は考えます。

6. 「HELLO, DOLLY!」と「WALL-E」

 劇中で引用されているミュージカル映画「HELLO, DOLLY!」との関係性については、以下の記事で考察しています。

→(下記終わり次第リンク記載予定)

 

7. エンディング描写について考察

 さて、ここまで「WALL-E」に影響を与えたと思しき作品についての比較と考察を進めてきました。ここで本題の、「WALL-E」のエンディングについての解釈を進めていきたいと思います。

(1)「I DON'T WANT TO SURVIVE! I WANT TO LIVE!」

 ロボットとの絆が結ばれたことによって、無事に地球に戻ってくることができたAxiomとその乗員。彼らはロボットと共に人類史の発展を一からなぞり直しながら、次第に都市を発展させていきます。

 しかしながら、そこには人類史には必須のはずの「飢餓」「貧困」「戦争」はありません。700年もの航海を可能としていたAxiomが稼働したまま、かれはら食糧難に飢えることもなく、住居に困ることもなく、Axiomの傍で生活を続けています。その証に彼らは

  • 食事はAxiomの飲料でまかないつつ、肥満体が維持できるほどの栄養を摂取し
  • 住居は既存の脱出ポッドでしばらく生活をし、
  • 時折農業や漁業、建築業をロボットと共にたしなむ

 という形で描写されています。つまり彼らは、降り立った先の地球上でさえ、「SURVIVE」のために生業をしているのではなく、「LIVE」ためにやっている、と言えてしまいます。よって、

「 I DON'T WANT TO SURVIVE! I WANT TO LIVE!」

と叫んだ艦長の意思はかなったといえるでしょう。

 土から離れて暮らしてきたからこそ、「土と共に生きたい」と願った艦長の言葉によって生まれた生活は、生存のための暮らしではなく、(露悪的に言えば)「趣味としての生活」と言えてしまうかもしれません。

 衣食住に不足すること無く、満ち足りた上で趣味として農業などを嗜む。それはまるで、マリー・アントワネットがプチ・トリアノンに作った農村のようなニュアンスさえ残ります。

(2)「おだやかでかしこい人間」

 「2001年宇宙の旅」からの考察の章で記載したように、ほかのAxiomたちが降り立ってこなかった原因として、人間とロボットとの内乱とそれによる破滅・崩壊があったのではないか、という予想を述べました。

 しかし本作で地球に戻ってきたAxiomは、700年ものあいだ、ロボットと揉めることもなく、ただ怠惰に穏やかに生き続けてきました。いわば作中で描かれたAxiomでは、人間は攻撃性を失い自己家畜化に成功した、と捉えることもできます。

 この、「人が居なくなった地球に改良された人類が降り立って再び文明を発展させる」という観点から考えると、実は原作のナウシカ終盤のストーリーに重なってきます。作中のAxiomの中の人々は、いわば下記画像右下コマでナウシカの言う「凶暴ではなくおだやかでかしこい人間」と言えるでしょう。

漫画版「風の谷のナウシカ」第7巻 211ページより引用

 Pixarの「WALL-E」制作スタッフがどれほど漫画版ナウシカまで研究したのかは不明です。しかし「WALL-E」という作品の結末は、奇しくも、漫画版ナウシカナウシカがたちが破壊した墓所の卵を、破壊せずに孵した状態、に近くなってしまっています。漫画の中でヴ王が「そんなものは人間とは言えん......!」と否定したものを、Pixarは「理想の人類」として描いたのかもしれません。

(3)人類がやり直すには

 地球を汚し、破壊してしまう人類が地球を再び美しい星に戻すには。やり直すには。「WALL-E」で描かれたエンディングを元にそれに対する回答を考えると、以下のようになってしまうと、私は考えます。

  • 人間自体に闘争心がなくなり、自己家畜化が完了する。
  • ロボットと共に生きて人類史をやり直すことにより、奴隷階級(危険な作業を担う)の人間を減らすことができる。
  • 無限に供給される食料が与えられることにより、環境に配慮した農業・漁業ができる
  • 飢えることがなく、闘争心もなく、支配-被支配の構造が人間の間に発生しないため、戦争が起きない。

 .......が、画餅!!!!!!

 いや、子供向け映画になに言ってるんだ、って感じではあるのですが。まさしく宮崎駿が漫画版ナウシカで「そんなものは人間ではない!」と言い切り破壊したそれそのものの世界というか、要は「エデンの園から出ないで済んだらよかったのにね」みたいななんかそういう話になってませんか?

 旧約聖書的には「エデンの園から追い出されたら肉体労働によって収穫を得る=農業をしなきゃいけない」ので、そういう意味ではAxiomから出て農業をしているのはむしろ自主的な失楽園ともいえるのですが、彼らはAxiom≒エデンの園にいつでも戻れる状態である以上、厳密な失楽園の状態とも言えません。

 というかこの回答だと地球上で現時点でsurviveのために生業をして生きている人間の全否定と言いますか、完全な理想状態じゃないと無理だよねー、という逆にすごい皮肉なのかもうわからないのですが、いやこれそういう皮肉なのかな?所詮人間には無理っていう諦めなの?

 ......取り乱しました。

 この点については私自身はっきりとした答えは出せていないのですが、おそらくは、2つのパターンが考えられると思っています。

  • あくまで子どもたち向け→子どもたちには希望に溢れた未来を思っていてほしい→そう思って作ってみた結果、事実上無理という結果をオブラートに包んで突きつけることになっている。
  • 「まあぶっちゃけ無理だよね」という諦観を逆に「ありえないほど明るい未来」として描いている。

 どっちなんでしょう......。私にはわかりません。ただ、「ラピュタ」「ナウシカ」や「もののけ姫」を生み出した宮崎駿とは違う回答を出したいという思いがあったのかな、というのは感じます。それが実現可能な回答かどうかは置いといて.....(表裏一体で結局同じこと言ってしまっているのではという気もします)。

 

 少なくとも、下記のような人間観とは異なったところに人間としてのゴールを置いてしまっている、とも思います。

漫画版「風の谷のナウシカ」第7巻 200ページより引用

8. パクリ?オマージュ?ラブレター?

 私自身は、「WALL-E(2008)」という作品を、「天空の城ラピュタ(1986)」や「風の谷のナウシカ(1984)」のパクリだとは思っていません。この作品中における「2001年宇宙の旅(1968)」「HELLO, DOLLY!(1969)」への態度と同様だと考えています。

 Pixarジブリと提携していることから、ジブリ作品を研究していた、もしくはそこに感銘を受けて作った宮崎駿へのラブレター的な作品と考えています。

 ラピュタナウシカと同じ問いを用意した場合に、Pixarなりの答えの出し方をしたのが「WALL-E(2008)」なのでは、と考えています。

(その出した答えに対する是非は、私は保留しておきます)

 

 私個人としては、Pixarが作り出したWALL-EやEVE、M-O、AUTOというキャラクターたちは、皆素直で一生懸命で愛おしいと思っています。それにストーリーも描写も、子供と一緒に見ていてとても楽しいと思える作品です。

 ただしこの作品を元に、人間としてどう考えるべきかについては......ゆっくり考えていきたいと思います。

WALL-Eあらすじ

 PixarによるフルCGアニメ映画「WALL-E(2008)」のあらすじについてまとめた記事です。別な記事で考察をするために書き出したのですが、映画の描写を詳細に書き出してしまったため、独立記事になりました。

 主に人間とロボットとのかかわり合いを中心に記述しています。

はじまり

 世界中をBuy n Large社(以下、BNL)が支配した世界。巨大なスーパーの経営から、あらゆる商品の提供がBNLによって行われ、世界中の広告がBNLのもので覆い尽くされていた。BNLはその経済規模を広げ、ガソリンスタンドなどのライフライン、そして銀行、独自通貨の発行まで担っていた。

 地球上は大量消費の果てにゴミだらけとなり、地球の衛星軌道上もスペースデブリまみれでケスラーシンドロームもびっくりの散らかり具合。地球の表面は大量のごみの山と大気汚染に満ち、青空はなく、ビルのように見えるものはうず高く積まれたゴミの山々。

 打ち捨てられた新聞は、地球上にあふれかえるゴミ問題について、世界大統領が緊急事態宣言を発令したとの文字が踊る。

 1950-60年代のCMを思わせる軽快なジングルが、荒廃した無人の町に響き渡る。

Buy n Large is your super store
we've got all you need and so much more

Happiness is what we sell
That's why everyone loves BNL

 「WALL-Eがゴミを片付けます!」と宣言する看板と、故障して動かなくなった清掃ロボットWALL-Eたちが無数に転がっている景色。近くにはWALL-Eたちが集めたゴミを処理していたであろう多くの巨大なシステムが、もはや駆動しないまま放置されている。

 BNLが経営する駅の前で、軽快な口調で語るCMが自動再生で流れる。

「地球がゴミだらけ?ならば広い宇宙へ飛び出そう!BNL宇宙船(star liner)は毎日運行!あなたの留守中にお片付けします!」

BNL船団の最高峰、宇宙船Axiomで、5年間の豪華クルーズを。24時間ロボットがお世話します。艦長とオートパイロットが素晴らしい旅をお手伝い。エンターテインメントも盛りだくさん。艦内ではホバーチェアがご利用できますので、歩く必要もございません。Axiomは夢のstar liner!」

世界大統領「BNLの旅で宇宙は最高の楽しい場所(fun-tear)へ!」

(Because, at BNL, space is the final "fun"-tier.)

 町にはもはや人の気配はない。そんな世界に共食い整備の果てにただひとりだけ生き残り、ごみ処理作業を続けている清掃ロボット、それが主人公のWALL-Eだった。

地球を飛び出す

 ひとりで暮らしていたWALL-Eの元に、地球上に植物が生えたかどうかを探索しにきたロボットEVEがやってくる。これまでずっと一人きりだったWALL-EはEVEに心惹かれてしまう。彼女に植物を手渡したところ、彼女は植物保存のため休眠状態に陥る。WALL-EがEVEを毎日大切に守りながら過ごしていたところ、ある日探査船が戻ってくる。EVEを迎えに来たのだ。EVEと別れたくないWALL-Eは探査船にしがみつき、探査船と共に宇宙へと飛び出す。探査船は巨大な宇宙船Axiomに収容された。

宇宙船の中の人類の様子

 Axiomでの700年の宇宙航海の間に、人類の体格はかなり変化していた。全員がホバーチェアを利用し、自ら歩くこともない。食事は全てストローから吸引するドリンクばかりで、自ら体を動かして運動することもない。船内の低重力の影響から骨密度は低下し、骨格は退化し、極端に肥満、そして短足に変化している。赤ん坊も乳児期からロボットにより養育されている。

 ホバーチェアから転落し転倒すると、自力で起き上がることもできない。しかしそんな誰かへの関心すら人々は持ち合わせておらず、転んだ当人もただロボットが救助に来るのを待つことしかできない。

 船内はBNLの広告で埋め尽くされているが、人々は画面に夢中で通りすがる景色に視線を向けることはない。艦内にプール施設があることにさえ気づいていない者もいる。人々は互いに触れ合うことも、直接会話することすらしない。バーチャルでのビデオチャット越しに、この退屈な生活への不平不満を口々に喋り続けているのだった。

Buy N Large. Everything you need to be happy. Your day is very important to us.

 色とりどりの鮮やかな広告が瞬く中、語りかけるような放送が艦内に響く。

 何もかもが満ち足りている700年のAxiom生活だが、恵まれているが代わり映えのない日々に人々は(艦長も含め)退屈していた。

宇宙船Axiomの中で

 Axiomでは、植物探査ロボットが光合成する植物を採取した場合、それは「地球上が居住可能空間になった」と判断する根拠となり、それを合図に地球へと帰還する予定だった。しかしこれまでに探査ロボットが植物を持ち帰ったことはない。この度、航行700年目にして初めて、EVEが苗を持ち帰ったことで地球帰還プログラムが初めて起動し、「再植民地化計画(Operation Recolonize)」が始動することになった。

 しかし、EVEは命令どおり植物の苗を持っていったはずだったが、その植物の苗がなぜか無くなってしまう。地球帰還プログラムは一旦中止になってしまったが、今の生活に退屈しきっていた艦長は、これをきっかけに地球に対する興味を持ち始めていた。

 なんやかんやしている内に、「発見された植物を抹消しようとしている」ロボットたちが居ることが判明。そこから植物の苗を奪い返し、皆で協力し艦長の元へと届ける。しかしオートパイロットのAUTOがそれを没収しようとしていた。理由は約700年前に世界大統領により発令された極秘命令、「地球の帰還阻止(コードA113)」。

「オートパイロットの諸君。悪い知らせだ。地球浄化作戦は失敗に終わった。汚染レベルが高いため、地球に住むことはできない。残念だが、再植民地化計画(Operation Recolonize)は中止。だから、航行を続けるように。この問題を解決するより、宇宙に居続けたほうが楽だ(Rather than try to fix this problem, it'll just be easier if everyone remains in space.)。」

「それでは命令A113を変更する。オートパイロットに告ぐ。全てを指揮し、地球には戻るな。繰り返す。地球には戻るな(Do not return to Earth)。」

 AUTOはこれまでの約700年間、このA113の命令を遵守し続けてきたのだった。

地球に戻ろう

 約700年前に出されたA113の頃とは状況が変わり、ついに地球は植物が育成できる環境になった。それを理由に艦長は地球への帰還を志すが、AUTOはそれを許諾しない。

艦長「事態は変わった!帰るぞ!(Auto, things have changed! We've got to go back!)」

AUTO「艦長、命令は"地球へ帰るな"です。(Sir, orders are: "Do not return to Earth".)」

艦長「今は住めるんだ。これを見ろ、青々と育ってる!彼は間違ってるぞ!(But life is sustainable now! Look at this plant, green and growing! It's living proof he was wrong.)」

AUTO「無関係です(Irrelevant, Captain.)」

艦長「大いに関係ある!あそこにあるのは我々の故郷。故郷が大変な時にじっとしていられるか。今までなにもしなかった。(What?! It's completely relevant! Out there is our home! Home, Auto! And it's in trouble! I can't just sit here and...and...do nothing! That's all I've done! That's all anyone on this blasted ship has ever done... NOTHING !!)」

AUTO「ここだと生き残れます(On the Axiom you will survive.)

艦長「生き残るよりも生きたい!( I DON'T WANT TO SURVIVE! I WANT TO LIVE!)

AUTO「命令に従ってください(Must follow my directive.)」

艦長「ああもう!......私はAxiomの艦長だぞ。我々は本日より故郷へ向かう(I'm the Captain of the Axiom. We are going home today!)」

 Axiomでは植物の存在そのものが地球帰還プログラムの発動スイッチとなっているため、ここから地球に帰還させたくないAUTOたちとの間で苗の争奪戦が始まる。AUTOは真実を知った艦長を監禁し、EVEとWALL-Eを廃棄しようとする。人間は地球で生きていくために、EVEは破壊されたWALL-Eを修理するために、それぞれが地球へ向かおうと、何がなんでも苗を取り戻そうとする。

 すったもんだの末に地球帰還プログラムが起動。AUTOに幾度も妨害されるものの、艦長は自らの足で歩くことを選択し、ついにAUTOの自動操縦(auto pilot)モードを手動でオフにしてマニュアル操縦モードに変更する。

艦長「AUTO, you are relieved of duty!

AUTO「NOOOOOO!!!」

 無事に苗をセットし地球帰還プログラムが始動、ハイパージャンプで地球へとひとっ飛びに帰還する。

そして地上へ

 地球へ帰還したAxiomから自らの足で降り立つ人々。EVEは大急ぎで壊れたWALL-Eの修理に向かう。WALL-Eの犠牲に敬意を表す人々。

 EVEの献身により無事WALL-Eはもとに戻り、Axiomから降りた人々は艦長の指揮のもと、「栽培」を始め、地球での生活を開始する。その頃地球はWALL-Eの掃除の甲斐もあってか、地表に土が現れ、少しずつ植物が生い茂りつつあるのだった。(終わり)

デッキブラシの勇気 - 劇場版「魔女の宅急便」終盤考察

 劇場版「魔女の宅急便」のクライマックスシーン、キキがデッキブラシに乗ってトンボを助けに行くシーンにおける、デッキブラシの挙動について考察しました。

 私としては、このデッキブラシは高所恐怖症だったのでは?という仮説を考えています。

 

※注意※

  • 以前考察した内容のまとめ直しになります。
  • 本編の時刻は北米版Blu-ray Discの時間を記載しています。
  • 画像は全て以下のページから引用しています。

魔女の宅急便 - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

 

1. 本編における描写の振り返り

 作中におけるデッキブラシの描写についてまず確認します。

  1. テレビ中継で飛行船が強風で吹き飛ばされる*1
  2. トンボが宙吊りになっていることにキキが気づく。
  3. キキがトンボを助けに向かう
  4. パトカーが飛行船から落ちる
  5. キキが掃除のおじいさんからデッキブラシを借りる
  6. キキが何らかの処置を行いデッキブラシに変化を与える
  7. デッキブラシの毛先が毛羽立つ
  8. デッキブラシが浮かぶ
  9. キキが「飛べ」と言うとデッキブラシが高く飛び上がる
  10. 飛行船と同じ高さでは不安定にふらふらと飛ぶ
  11. デッキブラシが急に降り、キキが屋根の上に落ちる
  12. テラスや通路の中を通る
  13. 屋根より高いところへ飛び上がり、キキが「まっすぐ飛びなさい、燃やしちゃうわよ!」と叱咤
  14. 飛行船が時計塔にぶつかる
  15. キキが「もっと早く!」と叫ぶと、デッキブラシが再び勝手に地面スレスレを飛行し、ものすごい速度で飛行船に近づいていく。キキは「こらー!」と怒っている。
  16. 飛行船の船尾が倒れて建物に引っかかる
  17. テレビの実況が入る
  18. トンボを助けに近寄るが、ガタガタと飛んでしまい飛行が安定せず、トンボに手が届かない
  19. トンボがロープから手を離し落下する
  20. 背景にある建物の屋根よりも低い高さの空中でようやくトンボの手を掴む
  21. ゆっくりと安定した速度で降りてくる

と、上記のような流れで描かれています。

 デッキブラシの反応をここから抽出してみると、

  • 地面から離れて高くなればなるほど飛行が安定しなくなる
  • 屋根の上よりも高い位置ではふらついた飛行になる
  • 地面の近くを飛ぶほうが早く移動できる

 という傾向があることから、私は「デッキブラシは高所恐怖症だったのでは?」という仮説を考えました。

2. 「魔女のほうき」の性質について

 作中において、魔女のほうきがどのような性質を持つものかについての描写は少ないですが、描かれている内容についてピックアップしてみます。

(1)「嵐にも驚かずに飛ぶ」

 まず、冒頭のキキが旅立つ際に自作のほうきを持っていこうとするシーン。母親がそれをたしなめ、自分の作ったほうきを持っていくようにと勧めます*2

母親「あなたそのほうきで行くの?!」

キキ「うん!新しく作ったの!かわいいでしょー」

母親「だめよー、そんな小さなほうきじゃ。お母さんのほうきを持っていきなさい」

キキ「やだぁそんな古いの」

母親「だからいいのよ。よーく使い込んであるから、嵐にも驚かずに飛ぶわ。ね?そうしなさい」

キキ「......せっかく苦労して作ったのにー。ねえジジ?」

 このやりとりから、

  • 魔女のほうきにも経験が必要。ほうきを使い込むことが重要。
  • 経験の少ないほうきは、驚いて飛べなくなる場合がある
  • ほうきには大きさも重要

 ということが示唆されます。

 この「ほうきの大きさ」に関しては、後半のデッキブラシにもある程度影響しているかも知れません(デッキブラシはほうきと比べると毛先が短いため)。

 実際に、母親のほうきに乗ったキキは、雷雨の中を飛んでいる際*3も、少し揺らいだ程度で雨の中でも飛び続けることができていました。

 また、ほうきがカラスたちに攻撃されついばまれた際には、かなり本気で「やめなさい!」と怒っています*4。ほうきと毛先の長さの関係はそこからも重要であることが推測されます。

(2)自作のほうき

 キキは旅立つ際、自分で作ったほうきに乗ろうとする様子もありました。また、一度母のほうきを折ってしまった際に自分で修理をしたりもしています*5。ここから、

  • キキは自分で箒をつくることができる
  • キキには、ほうきが"生まれて"はじめて飛ぶ際の飛ばし方のノウハウが有る

と推測できると考えます。

 このノウハウがもともとあったことによって、「そのへんのデッキブラシを借りてすぐに飛ぶ」という発想につながったのではないかと考えます。

(3)ほうきの扱い

 キキが「初めて乗る」ほうきの描写は、最初の母親のほうきに乗って旅立つシーンと、デッキブラシのシーンの2回あります。

 母親のほうきに乗って飛び立つシーンでは、ふわりと浮いた後に地面に降りようとするほうきをキキがピシャリと叩くと、勢いをつけて荒っぽく飛び立ちます。木々にぶつかって鈴の音が鳴る様子は印象的なシーンです*6

 また、デッキブラシを初めて飛ばす際には、「飛べ」と命令しています。

(4)飛ぶための処置

 これは推測でしかありませんが、ふつうのほうき(デッキブラシ含む)がまず飛べるようになるためには、魔女によってなんらかの前処置が行われる必要がありそうです。これによりデッキブラシの毛が毛羽立ち、飛行できるようになります。飛行道具としての自我を目覚めさせるとか、魔女のエネルギーを伝えやすくるとか、なにかそういう処置だと思われます。

 ウルスラの家で、キキは空を飛ぶことについて以下のように語っています。

キキ「私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

ウルスラ「魔法ってさ、呪文を唱えるんじゃないんだね」

キキ「うん、血で飛ぶの」

ウルスラ「魔女の血か。いいね、あたしそういうの好きよ」

(5)「相変わらず下手ねえ!」とは

 キキが実家から飛び立つ際、母親が「相変わらず下手ねえ!」と心配そうに叫びます*7。ほうきに乗って飛び立つ動作が下手、ということであれば、それ以降の本編で飛ぶ際の動作も下手に描かれるはずです。

 なお、キキが飛ぶ際に不安定な様子が見られたのは、

  • 母親のほうきにまたがって飛び立つシーン
  • 雷雨の中で雷が間近に落ちた際に少し揺らいだシーン*8
  • 貨物列車から飛び立った際に木にぶつかるシーン*9
  • 町中を飛んでいた際に観光バスの前に飛び出してしまい、道路上で危険な飛び方をしてしまったシーン*10
  • 魔法が弱くなり、飛ぶ力がなくなったシーン*11

 などです。それ以外での描かれる飛び立つ際の様子を見ると、少なくともウルスラから黒猫のぬいぐるみを受け取ってから飛び立つシーンではスムーズに飛び立っています*12

 この点を考慮すると、キキが「相変わらず下手」なのは、「慣れていない箒でいきなり飛び立つこと」なのではないのでしょうか。

 そう考えると、後半のデッキブラシでいきなり飛ぶシーンは、スランプ中だったキキとしても元々苦手なことにいきなり取り組むなど、かなり無理をしていたと考えられます。

3. デッキブラシ目線で考える

 さて、ここでデッキブラシになったつもりで考えてみましょう。親近感を持たせるために「デッキブラシくん」と以下では呼びます。

 デッキブラシくんのイメージは......アラジンの魔法の絨毯くんのノリで考えてみてください。魔法がかかっていて飛ぶアイテムであり、喋りはしませんが、その中にある程度の自我が入っているイメージでお願いします。

※なお、「魔女の宅急便(1989)」と、「アラジン(1992)」ですので、アラジンのほうがあとになります。

(1)おじさんと共に生きてきた「箒生」

 デッキブラシくんはおそらく、持ち主のおじさんと共にこの街で暮らしてきました。この街には長らく魔女はいなかったため、空を飛ぶ箒に出会うこともなかったことでしょう。

時計塔のおじさん「ああ、魔女とは珍しいな」*13

キキ「おはようございます。あの、この街に魔女はいますか?」

時計塔のおじさん「いいや、最近はとんと見かけんなあ」

バーサ「黒猫にほうき。ほんとにひいばあちゃんの言ったとおりだわ!」*14

 箒やデッキブラシは人に使われ、地面や床の上を掃除するのが役目です。故に、デッキブラシくんが移動したことがあるのは、おじさんが運んでいく先の街中や建物の中ばかりだったと思われます。街の通路の道順や、窓の外から見下ろす景色は日頃から見慣れていたことでしょう。

 それ以外の在り方を示す姿は、伝聞で聞いたことはあったかもしれませんが、デッキブラシくんも実際に見たことはなかったと思われます。

(2)「飛べ」と言われた日

 ある時、この街には珍しい魔女の娘が、このデッキブラシを貸してほしいと言ってきました。されるがままに手渡されたデッキブラシくんは、衆人に囲まれる中でいきなり上に跨がられ、なにかをされます。これまでに経験したことのない処置をされ毛先が毛羽立ち、少しだけ浮くことができるようになりました。

 自分が宙に浮くことができたことに半信半疑だったデッキブラシくんでしたが(推測)、それもつかの間、魔女に「飛べ!」と指示されます。壁を蹴り上げながら飛び上がるうちに、今まで馴染み深かった地面はすっかり遠くなり、屋根の上まで来てみたものの、その高さにデッキブラシくんはすっかり怖くなってしまいました(推測)。恐怖のため上空でしばらくふらふらと飛んでいると、遠くに飛行船が見えます。魔女の指示では、そちらに飛べば良いようです。怖くなったデッキブラシくんは、地面の上を行こうと急に高度を地面近くに下げようとしますが、乗り手の魔女は屋根にぶつかってしまいます。デッキブラシくんはテラスや通路の中を通って飛行船の方角に向かおうとしますが、魔女は再び屋根の上まで高度を上げるように指示してきて、そのうえ「まっすぐ飛びなさい、燃やしちゃうわよ!」と脅してくる始末です。

 時計塔に飛行船がぶつかり、その様子を見た魔女は「もっと早く!」と叫びました。ことの重大さを理解したデッキブラシくんは、迷わず再び勝手に地面スレスレを飛行し、箒生の中で最高速度で飛行船に近づいていきます。鞍上の魔女は再び高度を下げたことに「こらー!」と怒っていますが、今はとにかく善は急げ。地面の近くならば、道もわかるし怖くありません(推測)。車の間を縫うように飛び、あっという間に時計塔広場に到着しました。

(3)屋根よりも高いところ

 いきなり徴用された上、慣れない空中を飛ばされている中、そこには飛行船からロープにぶら下がる一人の少年が。鞍上の魔女はその少年を助け出そうと、再び宙高く跳ぶようにと指示してきます。

キキ「こら、いい子だから言うこときいて!」

 しかしそこは、屋根よりもはるか高い位置。デッキブラシくんも覚悟を決め少年の元へと近づきますが、やはり地面が遠くなると怖い。高所恐怖症のため、落ち着いて少年に近づくことができません。ガタガタと上下に大きく揺らいでしまいます。

 少年の手がロープから滑り落ち、少年が落下していきました。屋根すら見下ろせてしまうその高さでは恐怖で身がすくんでいたデッキブラシくんも、彼の元へと急ぎます。しかし地面が近づくほどに、デッキブラシくんの恐怖心も和らいでいきました。

 そして、建物の屋根よりも低い高さ(おおよそ3階建ての建物の窓の高さ程度)のところで、デッキブラシくんは少年のもとへ追い着きます。そこで魔女も無事少年の手を掴みました。

 高所恐怖症のデッキブラシくんでも、窓と同じ高さまでなら安定して飛行できたのです。

 少年を救い出し、デッキブラシくん(と鞍上の魔女)はヒーローになりました。周囲の人々の歓声の中、デッキブラシくんはゆっくりと優雅に舞い降ります。持ち主のおじさんも誇らしげです。

掃除夫「あのデッキブラシはわしが貸したんだぞ!」*15

 その武勇伝は街の子供達にも知られることになり、魔女のコスチュームの必須アイテムとして、「黒のワンピース、赤の大きなリボン、手にはデッキブラシ」という組み合わせが真似られるようになりました*16

(4)高所恐怖症の克服

 エンディングで、キキはデッキブラシを愛用し、それで飛ぶようになりました。

 ジジとリリーの子どもたちを乗せたキキは、デッキブラシにまたがり街を見下ろす高さを飛んでいます。初飛行でヒーローとなったデッキブラシくんはきっと、その後高所恐怖症を克服したのでしょう。

(5)もうひとつの、怖がりの箒

 デッキブラシくんが空を飛ぶにあたって最終的には恐怖を克服したわけですが、この経緯から「ほうきにはある程度自我がある」前提で見ていくと、もうひとつのほうきの感情も見えてきます。

 キキが初めて「海の見える街」に来た際に、観光バスの前に飛び出した後、複数の車の前で危険な飛び方をした母親の箒。その後車道から離れたがるように飛び去ります。

 人混みをかき分けるように勢いよく飛び、人通りの少ない通路へと逃げ込みました。このときのキキの様子は「箒を操縦する」というよりも「箒が勝手に逃げ出すところにしがみついている」ように描かれています。

 もしかするとこの時は、母親の箒くんの意思で飛んでいた可能性があります。車にぶつかって粉々になりそうになったことにびっくりして、車が怖くなり、車の前に飛び出すのが嫌で、車道から逃げるように飛び去ったのかもしれません。だからこそ、車の見えない狭い道でようやく落ち着いて着陸できたのかもしれません。

4. おわりに

 半分くらい妄想で補完してしまいましたが、こういう視点でほうきたちの挙動を見てみると、そのむちゃくちゃな動きに説明が付きます。今度「魔女の宅急便」を見る際には、ぜひこのほうき視点から飛び方をみることを楽しんでください。

 「魔女の宅急便」は、うちの2歳児もジジのことが大のお気に入りの作品です。ぜひ小さいお子さんがいるご家庭でも見てみてください。

*1:本編1時間32分ごろ〜

*2:本編6分ごろ

*3:本編11分ごろ

*4:本編38分ごろ

*5:本編1時間20分ごろ

*6:本編7分ごろ

*7:本編7分ごろ

*8:本編11分ごろ

*9:本編14分ごろ

*10:本編16分ごろ

*11:本編1時間17分ごろ

*12:本編44分ごろ

*13:本編15分ごろ

*14:本編53分ごろ

*15:本編1時間37分ごろ

*16:本編1時間42分ごろ

私にとっての「おもしろさ」とは? - 宮崎駿作品からの分析

 私自身の好きな映画はたくさんありますが、好きな映画の中に共通する要素にはどんなものがあるのかについて、考えてみた結果のまとめです。「その映画の好きな所」ではなく「私はどんな要素があるとその映画を好きになってしまうのか」という観点からの分析です。

0. はじめに

 10代の頃から物語の端くれを書いてみては挫折することを繰り返してきました。そんな中で、自分が物語を作る立場となって考えた場合に、どんな要素を自分は面白いと感じているのかについて分析をしてみたくなりました。大ヒットするとか、メジャーデビューするとか、そういう規模の話ではありません。あえて「自分自身が楽しくなってしまう要素」に着目して、自分のために自分好みの面白い物語を書けるようになるには、どこを工夫したらよいか、という視点から分析しています。

 今回は、宮崎駿監督作品の内、自分が好きな以下の作品をベースに分析をしてみたいと思います。

※注意※

  • 私自身はシナリオ作成について専門的な勉強をしたことはありません。そういう文献を読んだこともありません。一部は車輪の再発明になっている部分もあると考えています。
  • あくまで自分用のメモなので、適宜補足更新していく予定の記事です。
  • トップガンや他の話もちょいちょい混ざります
  • ナウシカに関する私の解釈はここにまとまっています

mymemoblog.hatenadiary.com

1. 行動の説得力はキャラの意思の強さから生まれる

「ご都合主義」という言葉に怯えない

 物語を考えている最中、頭の中に必ず浮かんでくる「ご都合主義」という言葉。この言葉を気にし始めると、作中のキャラクターの行動や、得られる結果についてやや非現実的な展開を結びつけることに怯え始めてしまいます。ありえないはずのことが起きないと物語が進展しないというならば、必要なのはそのシナリオの変更ではなく、その「ありえないこと」への説得力を増すことだと私は考えます。

 

 上記の作品のなかで描かれる「ありえないこと」にはどんなことがあるかについて考えてみます。例えば以下の通り。

 これらは一見非現実的なハイスペックさに見えるのですが、それでも、「この人ならやりかねない」という説得力があります。説得力があるからこそそれが突飛な展開、取ってつけたような設定、として受け取られず、違和感なく観客に受け入れられるのだと思います。

 この説得力が足りないと、「なんでいきなりそんなことできちゃうんだよ」と怒りの感情が出てきてしまいます。一方、説得力が足りていると、このような超常的なハイスペックさはむしろ、「かっこいいなあ」「このキャラならこのくらいやっててもおかしくないよなあ」「自分もやってみたいなあ」と思わせるような、憧れのポイントとして記憶されます。

 つまり、「ご都合主義」というのは、非現実的な展開、非現実的な能力が問題なのではなく、そこに説得力を伴わないままそうした展開がねじ込まれてしまうことが問題なのだと私は考えます。よって必要なのは「そういう行動をしかねない人間である」ということへの信頼感をいかに構築するか、という点だと考えます。描きたいものがあり、それに説得力がないとき、それは「説得力がないから描写を止める」のではなく、「説得力さえつければそれを書いてもいい」と考えればよいのだと思います。

 「ご都合主義」と言われかねない展開事態が禁忌/悪というわけではないのです。

 

説得力はどこから生まれるか

 上記でさんざん「説得力」と書いてはいますが、それはどこから生まれるのでしょうか。私は、下図のような形で「説得力」が生まれると考えます。

(1)意思の強さ、望みの強さ

 そのキャラクターが何を望んでいるか。そして、「その望みのためならばなんだってできる」と思っているか(=意思の強さ)。そういう点をきちんと練り込んだ上で描写をすることが重要だと私は考えています。観客がそのキャラを見たときに、「ああこのキャラはもうこれに関しては覚悟が既に決まっているな」と思わせられたらOKと言えます。

[ラピュタでの例]

  • パズー:父さんが見たというラピュタを実際に見てみたい
  • シータ:自分の家系に隠された秘密についての真実を知りたい
  • ムスカラピュタのちからを手に入れたい
  • ドーラ:最高の財宝がほしい

 宮崎駿作品のうち、私が面白いと感じられる作品の共通点としては、以下のような特徴があると考えています。

  • 意思をかためたきっかけ→最低限の「語り」で行われる。描写は鍵となるポイントのみ描く。
  • キャラクターの意思の強さ、望みの強さ→言葉ではなく、日頃の些細な「行動」からにじみ出る。ジャブとして観客に予め示しておく。

[例]

  • ナウシカのきっかけ→幼少期の王蟲との接触+「父や皆の病気を治したくて」と言葉で語る。
  • パズーのきっかけ→父とラピュタの話。
  • シータのきっかけ→祖母から教わっていた不思議な話の数々、「誰にも渡してはいけない」ことへの疑問を抱いていたことなど。

 

(2)説得力をもたせる≠全てを説明する

 この一段階前としての、何かのきっかけで「望みを持つようになる」「迷っていたけどだんだん意思が固まってくる」という過程に重きを置いた描写になると、比較的私の琴線に触れない作品になってしまいます(そういう作品に名作も多いですが)。物語の尺や、キャラクターの成長を描くなど、そういう面でのメリットは少なくありません。しかし実はこうした描写に頼ってしまうと、「全体の情報量が落ちてしまう」ため、作品としての濃度が下がってしまうと私は考えています。長期連載やTVシリーズならば描くべき要素なのでしょうが、劇場版や読み切りサイズの尺ならばそこは落としてもよい部分と考えます。

 個人的な見解として、この段階を敢えて本編で描くのではなく、それを読んだ/見た人間がその過程をありありと想像してしまうような、気づいたら二次創作を始めてしまうようなものが、とてもよい描写なのだと思っています。「これだけの行動や、これだけの関係性に至るには、それまでにどれだけの積み重ねがあったことだろう」と作中の行動から観客に想像させることが重要なのです。そしてそこの過程を描くべきは作者本人ではなく、それを受け取った側の読者が想像で埋め合わせれば良いことなのだろうと思います。

 特に、作品の濃度や密度を上げ、テンポを保つためには「語りすぎない」ことも重要です。観客の把握力を疑い、「なぜそうなったのか」を説明しすぎると、説明がくどくなりすぎてテンポも落ちてしまいます。観客を信頼し、最低限の説明に済ませ、その間に起きたことは二次創作で勝手に埋め合わせてもらう、というような描写で済ませる勇気も必要なのでしょう。

[例]

 以下の様子は、作中のささいな描写から推測はできるが、直接的な描写はない。しかし観客は本編の情報から好きに想像して埋め合わせることができる範囲となっている。

  • ナウシカが子供の王蟲との別れから腐海遊びをするようになるまでの期間。
  • ナウシカが皆の病気の原因を突き止めるために地下室で研究している期間。
  • パズーが父と過ごしていた日々、父が死んでしまってからシータに出会うまでの間の生活。
  • シータが家族と共に生きていた頃から、一人で暮らす日々、そしてムスカに攫われるまでの期間。
  • ムスカラピュタの話を知り、手に入れようと動き始めシータをさらうまでの期間。

※上に挙げたジブリ作品とは異なりますが、「トップガン」や「トップガンマーヴェリック」も同じ構造を利用していると考えます。ゆえにあの作品群は濃度が保たれテンポが維持されていると言えるでしょう。

  • マーヴェリックが父と母を喪ってからパイロットを目指すまでの期間
  • マーヴェリックがグースとペアを組むまでの期間
  • マーヴェリックとアイスマンが握手をしてから「トップガンマーヴェリック」までの30年間

 などなど......

 

意思の強さバトル

(1)意思の強い人間を複数用意する

 「既に意思が固まっており、腹をくくっていて、望みがはっきりしているため、行動の端々にその意図がにじみ出るキャラクター」という存在が、作中にどれだけ多く描けるかということが、作品の面白さと比例すると私は考えています。

 主人公やヒロインの意思を強くすることはできますが、それをさらに多くの勢力に、なんなら敵側までに徹底しようとすると、かなり難易度が上がってきます。しかしここを維持できるようになると、作品の面白さの質が一段上がると私は考えています。

 この「意思の強さ」の根拠に、安易に悪意や狂気(人間を滅ぼしたい、特定の人間への復讐に全てを巻き込む、等)を持ってきてしまうと、そのキャラクターの格がやや落ちることになってしまいます。敵の行動指針ですら、芯の通ったものとして描くことが、魅力的な物語の重要な要素になるのだと考えています。

[例]

 加えて、敵の内部でも意思が割れたりしていると、その数だけその場の意思や勢力が分裂し、途中で思惑が交錯しぶつかり合うことになります。そうした側面があると、展開の進み方がより複雑になり、面白さが増していきます。(例: ムスカと軍、トルメキア本国とクシャナ、など)

 

 また、敵だけではなく周囲のキャラクターも重要です。迷いや混乱を担うような「普通の人々」が多く、彼らが権力を持っている作品ではやや面白みが欠けてしまいます。そうしたキャラクターたちは描くことがあっても、彼らの意思よりもより強い意思と権力をもつ人間が彼らの行動指針を決める(覚悟を固めさせる)ポジションに居ると、作中の(私にとっての)不快感を減らすことができます。

[例]

  • ミトや城おじとナウシカの関係
  • ドーラ一家の息子たちとドーラの関係

 覚悟が完了しきっているキャラクターが多ければ多いほど、例えそれがモブキャラであったとしても、その集団の意思が反映されやすくなります。背景に居る集団の持っている意志がどんなものなのかを考えながら背景を描写すると、その場の生活感や価値観がぐっと上がります。

 またそういう描写があると私自身が見たときに「面白い!」と感じる頻度が上がっていくので、自分が物語を書くならばそこに注意をすべき、ということになります。

[例]

  • トルメキアの人質として選ばれてる城おじたち(最悪飛び降りて死ぬつもりだった)
  • ナウシカの身代わりになる女の子
  • トルメキアに船を襲われて最後のデッキを破城槌で破られそうになってる中で自爆の準備をしているペジテの人たち
  • ジルが殺されたと聞いてすぐに石を手に握ってた風の谷の人々
  • トルメキアに対して反乱する風の谷の人々
(2)意思の強さがぶつかり合う対象はなにか

 登場するキャラクターたちの意思が皆求め、そしてそれのためなら全力を尽くしてしまうようなものとして何があるか、を設定することが重要となります。例えば図式化すると以下のようになります。

 共通するのは、「強大な力」や「とてつもなく高い価値があるもの」などの要素を中心に据えることにより、各キャラクターの強い動機として作用しています。この「高い価値があるもの」が存在し続ける限り彼らの意思や行動は止まることはありません。彼らの意思が拮抗し続ける限りそれが面白さにつながっていき、複雑なストーリーを生み出します。

 故に、彼らの行動を止めるためには、その「高い価値があるもの」の価値が失われる必要があります。そのため上記の作品で言えば、巨神兵は崩壊し、ラピュタバルスで崩壊して宇宙へ飛んでいき、カリオストロの城の財宝は「古代の街」だったために持ち運べなかった、というオチになります。

 また上記作品だけではなく、他の宮崎作品でもこの傾向はあります。風立ちぬでは、主人公堀越二郎の「創造的人生の持ち時間は10年」の期間を、菜穂子とカプローニと軍部が奪い合っています(10年経過すると無くなってしまう)。

 もののけ姫に関しては少々複雑にはなりますが、大まかには「シシ神の首を巡って奪い合い(そして消滅する)」というストーリーになっています。

 また、この「どのような勢力が、どのような構図で物語が進んでいくのか」を、序盤でどれだけ端的に説明できるか、もストーリーのテンポに大きく関わってきます。

(3)面白さ≠展開の読めなさ

 「展開が読めない」というフレーズは、面白い作品への褒め言葉として使われることがあります。しかし、これを字の通りに受け取り、「観客の予想を裏切ることが面白さにつながる」という解釈をしてはいけないのです。予想を裏切ることが面白さを裏付けるわけではないことは、結果を知っていてもなお面白いと思える作品が実在することで証明できます。何度見ても面白い、という褒め言葉は、その点に対する評価と言えるでしょう。

 こうした面白さの中でもっとも重要な要素を担っているのは、以下の点です。

「キャラクター同士の意思が交錯し、どちらが勝つか読めず拮抗している状態」

 宮崎駿作品の根底では、以下のようなルールが背景で共有されていると考えます。

  1. 場面内で最も意志の強い者の行動が物語を駆動させる権利を持つ
  2. 意志の強さが同格であった場合はより強い力をもつ側が勝つ
  3. 意思の弱い者、覚悟なき者はどんなに行動力があっても物語を変化させられないので背景にしかならない

 意志の強い人間がその場の展開を進めることができ、意志の強さが互角の場合はもっとも力が強いものがその場の流れを持っていく。そして意思も力も互いに拮抗したとき、そこで「展開が読めない」という表現で面白さを称える評価が与えられるのだと思います。

 歴史的に結末が決まっている大河ドラマが面白かったり、「今年こそ西軍が勝つんじゃないか.....?」というジョークが出るのも、キャラクターとして描写されている意思の強さが同格で拮抗していることから生まれている魅力と言えるでしょう。

 

 また、意思が強く、妥当で、行動に一貫性があるならば、キャラクターの失敗が描かれても観客側の不快感が少ない、というメリットもあります。キャラクターが意思に基づく行動選択の末、結果的に「失敗」したとしても、それに一貫性があるならば「愚行」として受け手は受け取らないのだと思います。意思に従い努力した結果失敗したものについては、否定的な印象を残しにくいのだと思います。

[例]

  • 逃げ場のない場所でパズーを助ける目的で行われた、シータのムスカに対する体当たり
  • クシャナによる早すぎる巨神兵の起動
  • ペジテによって行われた、ペジテ市を蟲たちに襲わせる計画
  • ナウシカが救出できなかったラステル
  • 腐海の奥でアスベルを救出した際に蟲の尾に当たって気絶するナウシカ

2. 複数のストーリーを同時に動かす

交錯するときに面白さが生まれる

 複数のキャラクターたちが強い意思を持ち、互いの思惑が交錯しながら展開が進む時、そこに複数のストーリーが生まれます。この同時に進むストーリーが多ければ多いほど、展開の密度が上がりテンポが良くなり、そして面白さが濃縮されて行きます。

 「このストーリーで一本話が書けるな」と思える濃度の物語を一つの作品内に同時複数投入するのがポイントだと考えます。また、展開が盛り上がる場所ではその複数のストーリーが同時に交錯するととても白熱する場面になると言えます。

[例1]軍の要塞からのシータ救出作戦の場面

  1. ムスカと軍の抗争
  2. 石と石の呪文を求めるムスカ
  3. シータを助けにいくパズー
  4. 軍とドーラ一家の衝突
  5. シータを助けたいロボット

[例2]ナウシカの本編における大まかな筋書き

トップガンマーヴェリックに対する褒め言葉として、「映画1本に映画n本分の面白さが入っていた(トップガンエスコンライトスタッフバトルシップスター・ウォーズEP4、スペースカウボーイ、エネミー・ライン紅の豚、etc.....)」といった評価がありますが、それもまた同じことを指していると私は考えています。

展開のテンポを上げる

(1)同時に走っているストーリーを垣間見せる

 物語のピークで思惑がぶつかるのは見せ場になりますが、それ以前でも、「並行していくつかの思惑が動いている」ことを示すのは重要です。例えば、シータを追っている組織が2つあることを示すなど。

 一つの場面を丁寧に書き続けているとそこでテンポがダレてしまいます。なので、途中で別な思惑を持つものが途中からカットインしてくることによって、展開がダレずに次に進めることができます。

(2)神出鬼没なキャラは動かしやすい

 意志の強ささえ説得力を持って描けるならば、たとえそのキャラが神出鬼没であっても成立します。

 そして、どこにでも突然現れてもおかしくないような行動力のあるキャラクターが居てくれると、そのキャラのちからによって一旦閉塞したストーリーを強引に推し進めていくことができます。(例: ドーラ、王蟲、不二子やルパン、ポニョなど)

(3)察しのよいキャラは解説役にできる

 複雑な展開が起きる時、最初に予兆に気づくような察しの良いキャラがいると、観客に「これから何かが始まる」という予告を与えることができます。動物(テト、ヤックル、山犬など)や勘のいい人物(大婆様、ドーラなど)などがそのポジションにいます。ちなみにナウシカの場合はテレパスで察知しているのでだいぶ察するのが早いです。

 そして、その察した人物が何かを解説してくれると、展開の描写がやりやすくなります。

[例]

  • 大婆様の、「大気が怒りに満ちておる......」や「古き言い伝えは真であった......!」など
  • ドーラの、「あれが飛行石の力だよ!」など

※一応、ポムじいさんも解説ポジションにいるキャラと私は考えています。

 

n. そのほか

観客の感情をコントロールする

 各キャラクターを描く場合、観客がどのキャラを好きになっていくかを把握した上で描写していく。受け手がキャラクターに対してどんな感情を抱くか、親近感を持つか。そこを含めて作り手はストーリーを操縦する必要がある。

 ギャグパートや日常パート、すぐに弱音を吐くなどの場面は観客に親近感や好感をもたらす。

 一方で、プライベートが見えにくく、サングラスやゴーグルによって価値観が見えづらい場合は、そのキャラの思考や価値観、動機が見えにくくなり、観客からの心理的距離感は遠くなる。

※映画「E.T.」において、大人たちの顔がラストシーンまで見えにくい状態に保たれているのも近い作劇意図があると私は考えます。

 

以下、思いつき次第、随時更新予定。

蒼き清浄の地とはどこか - 劇場版「風の谷のナウシカ」考察

 飛行機が大好きで、テトのぬいぐるみがお気に入りの2歳児が何度も見ている映画、「風の谷のナウシカ(1984)」における描写について、私なりの解釈をまとめました。

※注意※

  • 漫画版と劇場版アニメは展開が異なっていることは知っています。
  • 漫画版や絵コンテはある程度参考にしますが、あくまで「アニメ版における答えはなにか」について考察をした記事です。
  • 本編の時間は、北米版Blu-ray Discでの時間を参考にして記載しています。
  • 私自身は、ナウシカの漫画版とアニメ版の関係は、鋼の錬金術師における原作と「シャンバラを征く者」の関係性に近いと考えています。
  • 劇中の画像は全て下記から引用しています。

    風の谷のナウシカ - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

1. はじめに

 旅の剣客ユパが、族長ジルのところへ来て旅の話をする最中*1、大婆様とナウシカが古い言い伝えについて語ります。

「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を蒼き清浄の地へ導かん」

 大婆様はラストシーンの王蟲の触手の平原を歩くナウシカの様子を子どもたちから聞くと、この言い伝えを思い出し歓喜します*2

「古き言い伝えはまことであった......!」

 さて、これによって古い言い伝えのうち「青き衣をまといて金色の野に降り立つ」人はナウシカであるとわかります。では、「失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地へ導かん」については、作中どこまで描かれているでしょうか。今回はこれについて考えてみたいと思います。
 「失われし大地との絆を結び」のうち、「絆」については、王蟲との絆が結ばれた、と解釈することもできるかもしれません。実際、あの触手は心を通わせると出てくるものであるらしいと、大婆様のセリフからもわかります*3

「なんという労りと友愛じゃ......王蟲が心を開いておる......!」

 よって、これは「絆」と言えるでしょう。「失われし大地」については、腐海に飲み込まれていった土地のことを指すのかも知れません。
 では、「蒼き清浄の地」とはどこのことを指すのでしょうか?

 

2. 背景の整理

 まず、作中でなぜ風の谷があんなにめちゃくちゃになったのかについて、キーワードごとに整理します。

[腐海の森]

 まず、プロローグの文章*4を下記に記載します。

 巨大産業文明が崩壊してから1000年。錆とセラミック片におおわれた荒れた大地に、くさった海...腐海(ふかい)と呼ばれる有毒の瘴気を発する菌類の森が広がり、衰退した人間の生存をおびやかしていた。

 また、作中に語られていた要素なども含めて、腐海についての情報をまとめると、

  • 腐海とは、人間にとって有害な瘴気を出す森。マスクなしだと5分で肺が腐って死ぬ。
  • 腐海の範囲には人は住むことができない。
  • 腐海の森には蟲が住んでいる。

「きれい......マスクをしなければ、5分で肺が腐ってしまう死の森なのに*5

  • 腐海の範囲は広がる一方のため、人間の居住区域がどんどん狭まっている(ジルとの会話でも「南でまた2つの国が腐海に飲まれてしまった」とユパが語っている*6)。
  • 生き残っている人類は、なんとかして腐海の範囲を減らしたいと考えている。

クシャナ腐海を焼き、蟲を殺し、人間の世界を取り戻すのに何を躊躇う!我軍がペジテから奪ったように奴を奪うがよい*7

ペジテの長「今はつらくとも、巨神兵を取り戻せば腐海を焼き、人間の世界を取り戻せるのだ*8

  • 昔の人々も腐海を減らすために幾度も焼こうとしたが、そのたびに腐海は増えた。

大婆様腐海に手を出してはならぬ。腐海が生まれてより1000年。幾度も人は腐海を焼こうと試みてきた。そのたびに王蟲の群れが怒りに狂い、地を埋め尽くす大波となって押し寄せてきた。国を滅ぼし、街を飲み込み、自らの命が飢餓で果てるまで王蟲は走り続けた。やがて王蟲の骸を苗床にして胞子が大地に根を張り、膨大な土地が腐海に没したのじゃ。腐海に手を出してはならぬ。」

  • 腐海の近くで生活する者は、いずれ「空が飛べなく」なったり、手が石のように固くなったりする=「腐海のほとりに生きる者の定め」。
  • 腐海の瘴気は、マスクをすればある程度肺を守ることはできる。粘膜(眼球結膜など)は腐海の中で露出していても大丈夫らしい。

  ※腐海の中で粘膜露出をしても平気な理由については、漫画版ではアニメ版と異なる結論として、「清浄すぎる中では現生人類ですら生き残ることができない」と回答しています。

  ※アニメ版において、粘膜露出をしても平気な理由については細かくは語られていないと考えます。

 アニメ版ナウシカにおいて、登場人物たちはそれぞれアプローチは異なれど、同じ疑問を抱いています。

ユパ「私はただ、腐海の謎を解きたいと願っているだけだよ。我々人間は、このまま腐海に飲まれて滅びるよう定められた種族なのか。それを見極めたいのだ」*9

アスベル「だとしたら、僕らは滅びるしかなさそうだ。何千年かかるかわからないのに、瘴気や虫に怯えて生きるのは無理だよ。せめて、腐海をこれ以上広げない方法が必要なんだ」*10

[巨神兵]
  • 旧世界の技術で作られた巨大兵器。1000年前の「火の七日間」で使用され、世界を焼き尽くした。
  • 「奴には火も水も効かぬ。」=燃やしても酸の湖に沈めても死なない。

ユパ巨神兵はすべて化石となったはずだった。だが、地下で1000年も眠り続けていたやつがいたのだ。」*11

[ペジテ]
  • 工業都市。アスベルやラステルの故郷。
  • 過去の時代の遺産を発掘している最中に、「巨神兵」を発見する。
  • ペジテは、腐海の森を巨神兵の力で焼き払うことで、人の生きる場所を増やそうと考えている。
  • トルメキア軍に侵攻された際、人質としてラステルと巨神兵を奪われてしまった。
  • トルメキアに侵攻されたため、王蟲を使って町ごと襲わせて、トルメキア軍を全滅させた。しかしその際にセンタードームも王蟲に破壊されてしまった*12
  • 生き残ったペジテの国民が乗った船にトルメキア兵が攻めてきた際、破城槌でドアが破られたら自爆して対抗しようとしていた*13

トルメキア軍「残るはここだけだ」

アスベル「ドアが、砕けるぞ!」

ペジテの長「いつでも来るがいい。ペジテの誇りを思い知らせてやる!」

 (自分の国を蟲に襲わせたり、敵を巻き込んで船ごと自爆しようとするなど、ペジテの民は基本的に「自爆特攻の民」なのかもしれない)

[トルメキア]
  • はるか西方の強豪な軍事国家。クシャナやクロトワの故郷。
  • ペジテが「巨神兵を発掘した」と聞き、「他国が強大な力を得る」ことを恐れた。そのためペジテに進軍をした。
  • ペジテから移動する最中、巨神兵を載せた貨物船が蟲に襲われ進路がとれなくなり、風の谷に墜落。
  • 巨神兵が運べないため、辺境の国々をまとめて連合国とし、巨神兵の力を以て腐海を焼き払うことを企てた。

クシャナ「なかなか良い谷ではないか」

クロトワ「私は反対です。本国では一刻も早く巨神兵を運べと命令しています」

クシャナ「命令は実行不能だ。大型船すらあいつの重さに耐えきれず墜落してしまった。」

クロトワ「しかし、まさか本心でこの地に国家を建設するなどと――」

クシャナ「だとしたらどうなのだ?おまえはあのバケモノを本国のバカどものおもちゃにしろと言うのか?」

クロトワ「それはまあ.....そうですがね。私は、いち軍人にすぎません。そのような判断は分を越えます」

クシャナ「......たぬきめ」*14

 

クシャナ「わからぬか、もはや後戻りはできないのだ。巨大な力を他国がもつ恐怖故に、私はペジテ攻略を命じられた。奴の実在が知られた以上、列国は次々とこの地に大軍を送り込むだろう。お前たちに残された道は一つしか無い。巨神兵を復活させ、列強の干渉を排し奴とともに生きることだ」*15

[風の谷]
  • ナウシカ、ジル、ミトらの故郷。
  • 海のすぐ傍、渓谷に挟まれた場所にあり、堰で隔たれている。海からの風が吹くので、腐海の毒が届きにくい。
  • それでもなお、「腐海のほとりに生きるものの定め」である疾患が存在する。

城おじ「この手を見てくだされ。ジル様とおなじ病じゃ。あと半年もすれば、石とおなじになっちまう。じゃが、わしらの姫様はこの手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと言うてくれましたわい。」*16

クシャナ腐海の毒に侵されながら、それでも腐海と共に生きるというのか」

城おじ「あんたは火を使う。そりゃあわしらもちょびっとは使うがの。多すぎる火は何も生みやせん。火は森を一日で灰にする。水と風は100年かけて森を育てる。わしらは水と風のほうがええ」

  • 渓谷を吹き抜ける風の力を使って水を汲み上げ、その水を使って生活している。
  • 城壁の内側では(少なくともトリウマが飲める程度の水の)川が流れ、マスクを外して生活ができる。ブドウ*17やチコの実といった植物の栽培も可能。
  • ペジテから巨神兵を奪ったトルメキアの貨物船が風の谷に墜落したことで、物語が始まる。
巨神兵をめぐる戦い

 映画のストーリーの本筋は、この「巨神兵の奪い合い」というところを軸にして進んでいきます。巨神兵を他国に持ってほしくないトルメキア、巨神兵があれば人の居住可能な地域を広げられると信じているペジテ、「巨神兵なんか掘り起こすからいけないのよ!」とキレてるナウシカ。この3つの勢力が揉めている間に、ペジテが誘導した王蟲の群れが風の谷へと襲ってきたため、巨神兵が早めに起動させられます。
 巨神兵を滅ぼす手段については当初この三国ともに考慮していなかったのかもしれませんが、「思ったよりも早く起動することになった」ことにより、火でも酸の湖でも破壊できないはずの巨神兵は、あっけなく崩壊してしまいます*18

 腐海の森を焼き尽くすどころか、王蟲の群れすら腐った巨神兵では止めることはできませんでした。ペジテの人々やクシャナの当初の目論見はこれで外れてしまったと言えます。

 原作ではこの巨神兵はしっかり元気に育ってママを慕って大活躍するわけですが、2時間の映画の尺に納めるには、このほうがストーリーは丸く収まります。なぜなら、トルメキアとペジテが争っていた理由(=他国が強大な力を持つこと)自体が無くなったのですから。

 しかしながら、そもそもこの争いが生まれた本来のきっかけは、「腐海が広がり続け、人の暮らす場所が狭まっていること」が始まりです。腐海が広がる一方で、人々が争いをやめないことをユパは憂えていました*19腐海が広がり続けるからこそ、巨神兵を使ってでも焼こう、という話になり、ペジテとトルメキアとの争いが始まったと言えます。

3. エンディングの描写の振り返り

 さて、巨神兵が崩壊し、そしてナウシカが文字通り「身を挺して」王蟲の群れの暴走を止め、風の谷を救ったあと。ナウシカこそが「青き衣をまといて金色の野に降り立つ」人であると示されたあとのエンディングの描写を再確認します。

 エンディングのシーン*20では、以下のように描写が切り替わっていきます。

  1. 帰っていく王蟲の群れ
  2. 巨神兵の骸のそばで、クシャナを説得するナウシカ
  3. トルメキアの船が風の谷から飛び立っていく
  4. トルメキアの船に乗り込むクシャナ
  5. トルメキアの船が帰るのを見送るナウシカやアスベルたち
  6. 風の谷の城おじたちの宴会
  7. アスベル含むペジテの人々と共に新しい風車を組み立て、地下から水を汲み上げるナウシカ
  8. 木々の焼け跡が残る森に、新しい苗を植えているシーン
  9. 王蟲の抜け殻を拾いに行った谷の人々
  10. 子どもたちへのメーヴェの授業と、そこから見える海辺の景色
  11. トリウマに乗っていくアスベルとユパを、明るい顔で見送るナウシカ
  12. 腐海の奥へと探索に行くアスベルとユパ
  13. 腐海の底に落ちたナウシカのゴーグルとそこから芽生える葉っぱ

 これらのシーンは、特に深く考えずに見ていると、
「トルメキア帰るんだー、巨神兵無くなったもんね」
「戦争が終わってよかったね」
「トルメキアが壊しちゃった風車直したんだね」
「森が胞子にやられて燃やしちゃったから、植え直さないといけないもんね」
「そうだった王蟲の抜け殻取りに行くんだった」
メーヴェ教室いいなあ」
「あの二人腐海に行くんだ」
「.....葉っぱ?

 となって終わってしまいます。というか、以前の私がそうでした。最後の葉っぱだけが理解できなかったのです。
 ちなみに、あの葉っぱのシーンは原作には描かれていません。となれば、アニメ版のエンディングとして重要なアイコンなのでしょうが、当初の私は理解できていませんでした。

 ここからは、このエンディングの描写を読み解きながら、ナウシカの行動の意味を考えていきたいと思います。

4. ナウシカの研究成果

 「父やみんなの病気を治したい」という動機から、ナウシカが地下室で行っていた栽培研究は、戦争に巻き込まれた旅の中でも追加の発見をしています。

(1)ナウシカの発見

谷での生活で既に判明していたこと
  • 胞子が谷の植物に付着しても、小さいうちであれば瘴気は出ない*21
  • 胞子が一定サイズ以上に成長すると、瘴気を出し始める*22
地下の研究室でわかっていたこと
  • 大風車で地下500メルテから汲み上げた清浄な水と砂で、腐海の植物を栽培すれば、瘴気は出ない。
  • 土が汚れていれば、たとえ谷の土であっても瘴気が出てしまう

ナウシカ「きれいな水と土では、腐海の木々も毒を出さないとわかったの。汚れているのは土なんです!この谷の土ですら、汚れているんです。なぜ。誰が、世界をこんなふうにしてしまったのでしょう。」*23

ここから導き出される仮説は、以下のようになります。

  • おそらく汚染された土地に生えた植物もまた汚染されているため、そこに生えた胞子からは瘴気が出る。
  • マスクが不要な土地ですら、そこの植物や作物も汚染されている。

腐海の底で判明したこと
  • 腐海の底は、腐海の森の木々が枯れてできた地下空間
  • 空気は清浄で、マスクなしでも過ごすことができる。蟲もいない。
  • 水が豊富に流れており、その水は枯れた木々の中を通っている。
  • 腐海の底の砂は、井戸の底の砂(=地下500メルテから汲み上げたもの)と同じ。つまり、「汚れていない」土である。
  • おそらく水も清浄(ナウシカが地下室で汲み上げていた水と同じ水である場合)。

「なんて立派な木。枯れても水を通している。」

「井戸の底の砂と同じ。石なった木が、砕けて降り積もっているんだわ」*24

 ここからナウシカが導き出した推論は、以下のように語られます。

アスベル腐海の生まれたわけか。君は不思議なことを考える人だな」

ナウシカ腐海の木々は、人間が汚したこの世界を、きれいにするために生まれてきたの。大地の毒を体にとりこんで、きれいな結晶にしてから、死んで砂になっていくんだわ。この地下の空洞は、そうしてできたの。虫たちはその森を守っている。」*25

 ナウシカとしては、これまでの自分の研究と、腐海の底への落下という偶然のフィールドワークによって、自分の仮説を裏付ける証拠を目の当たりにしたのです。これを元に今後もさらに研究が続けられるとなれば、そりゃあ嬉しくて泣いてしまうのも当然でしょう。

アスベルナウシカ......泣いてるの?」

ナウシカ「うん、嬉しいの」*26

 今まで瘴気や腐海の毒について研究を続けてきたナウシカが、腐海の底のことを知ったことは物語の根幹に関わるポイントでもあるため、今後のこの世界を大きく解決に導きます(詳細後述)。だからこそ、腐海の底のシーンでは、この作品のOP曲が流れるのだと思われます。この発見が後の世の伝説へとつながっていくのでしょう。

 

 ナウシカは、のちにペジテに捕らえられた際にも、腐海の底で発見したことや、そこから導き出した仮説をペジテ市民に訴えています。

ナウシカ「あなたたちだって、井戸の水を飲むでしょう?その水を、誰がきれいにしていると思うの?湖も川も、人間が毒水にしてしまったのを、腐海の木々がきれいにしてくれているのよ。その森を焼こうというの?巨神兵なんか掘り起こすからいけないのよ!」

ペジテの長「ではどうすればいいのだ!このままトルメキアのいいなりになればいいのか」

ナウシカ「違う違う!アスベル、みんなに言って!腐海の生まれたわけを!蟲は世界を守ってるって!アスベル!お願い!」*27

 

 ナウシカは、ここまでで得た情報を元に、以下のような仮説を立てたと考えられます。
腐海の森は水や土を浄化するために存在している。ならば、腐海の森によって浄化された水と土を使用すれば、汚染のない栽培ができる。

 この汚染なき栽培法(仮称)仮説が、その後のエンディングの描写につながってきます。

(2)ナウシカの解決策

 ここで、エンディングの描写をもう一度振り返ってみましょう。トルメキアが帰った後、ナウシカたちは「ペジテ市民と共に風車を組み立て、地下から水を汲み上げ」「新しい苗を植えて」います。

 汚染なき栽培法(仮称)仮説をもとに整理すると、この描写は以下のように考えることができます。

  • 風車を組み立て、地下から水を汲み上げる→地下500メルテ以深から汲み上げた水と砂を引き上げ、汚染されていない水と土を準備している。
  • 新しい苗を植える→汚染されていない清浄な水と土から栽培した苗を、汚染されていない土を満たした土壌に植え付けている。

 風の谷の技術力では、「城の大風車」を使って掘り出さなければ、地下500メルテからの汚染のない水と土を掘り上げることはできませんでした。一方ペジテ市民は、旧世界の遺産(巨神兵含む)を発掘することに長けた人々です。掘削技術については風の谷の人々よりも優れていると予想されます。

 そこで彼らが協力し、風の谷に汚染のない水と土を掘り出しやすい風車を作ったと考えられます。この風車の形態は、風の谷に置かれているタイプ(レンガ式の大型なもの)の風車と大きく形態が異なっている(木組みで金属パーツを使用したシンプルなもの)であることからも、ペジテ式の風車を建設したと考えられます。

 また、ここでペジテ市民が風車を作ることで、ペジテが結果的に風の谷に対して損害を加えてしまったことへの贖罪にもなったことでしょう。

 ナウシカは、「父やみんなの病気」「腐海のほとりに生きるものの定め」とされる疾患の原因が、「汚染された土壌で栽培された植物を摂取していた」ことに理由があると考えたのではないでしょうか。そのため、まずは「汚染されていない土壌での栽培」という方向に舵をとったのだと思われます。

(3)その後の風の谷の発展

 ちなみに、エンディングの「子どもたちへのメーヴェの授業と、そこから見える海辺の景色」についてですが、あれはよく見ると、「風の谷の海沿いの土地が見下ろせるシーン」となっています。

 風の谷を見下ろすシーンは、ストーリー序盤のユパが谷にやってきたシーン*28にも見られます。その時点では、海沿いはそこまで開拓されている様子はみられません。その一方で、エンディングのシーンでは、海沿いギリギリまで畑が開拓されているようすが見られ、また海のそばには溜池のようなものも見られています。

 あのエンディングのメーヴェ教室のシーンはおそらく、風の谷が戦争を乗り越えてた以降により栄えていったことを示すシーンだったと考えられます。開拓範囲が広がったことは、谷全体の人口増加(≒死亡率減少)を示唆する描写なのかもしれません。

※このシーンは子どもたちと共に描写されていることから、胎児および乳児死亡率の低下も示唆しているシーンかもしれません。原作では風の谷では小児の死亡率の高さが問題となっていました(ナウシカの兄弟たちが軒並み死亡していること、赤子を助ける薬草が必要なこと、子供が少ないとユパが感じていることなど)。

※子供の死亡率が高いという原作の設定が、アニメ版にどの程度反映されているかは不明です。ただ、原作と比較すると、アニメ版は風の谷の子供は少なくはないという描写がされているようです。敢えて言うなら、トエトの子が「姫様のように丈夫に育つ」ことを願う程度のセリフにしか残っていません。

※将来的に谷の子どもたちが、汚染のない土と水で育つことで腐海のほとりの病にかからずに生きていける、という意味での描写だったパターンも有りえます。きっと、ユパが名付け親となったトエトの子も丈夫に育つことでしょう。

 

5. 「蒼き清浄の地」とはどこか 

(1)それでも腐海は広がり続ける

 汚染のない土壌を使った栽培によって、ひとまず短期的な解決はできました。谷の人々が悩まされてきた疾患についても、今後は改善に向かっていくのでしょう。

 しかしながら、いくら腐海の森が水や土を清めているとはいえ、瘴気を出し続ける腐海の森が広がり続ける限り、人の居住環境の範囲が狭まっていくことには変わりありません。いずれ風の谷すら腐海が飲み込むこともありえます。その時、人々はどこで生きていけばよいのでしょうか。

 それに対する回答は、エンディングの「腐海の奥へと探索に行くアスベルとユパ」の描写につながっていると私は考えます。

(2)ラストの「葉っぱ」は何なのか?

 エンディングのラストシーンでは、腐海の底に何らかの葉っぱが生えています。腐海の森に生えるのは本来、腐海の森の植物です。胞子を出したりする菌類のようなものであり、ラストに描かれている広葉樹のような植物ではありません。
 ではあの植物はどこから来たのか?そのヒントが「ナウシカのゴーグル」にあります。つまり、ナウシカが持ち込んだ地上の種子であるチコの実と考えられます。蟲に襲われ転落したときに、チコの実も一部落下したのでしょう。

※実はこの点については、絵コンテで「チコの実の芽」とはっきり記載されています。


 「とっても栄養がある」とされるチコの実が、空気と水が清浄な空間で芽生えることができたということは、腐海の底でも人が食用にできる栄養価の高い植物の栽培が可能ということです。また、ここでは蟲たちの脅威もありません。これはつまり、腐海の底という新たな空間が、いずれ人間の居住地として使える場所になっていくことを示唆しているのではないでしょうか。

(3)アスベルとユパの旅の目的

 腐海の底の実在を知っているアスベルが、ユパとともに腐海の森へと向かったのは、いずれ彼らが再び腐海の底を発見することができるだろう、というフラグなのではないでしょうか。そして彼らが腐海の底へ再びたどり着いたときには、チコの木が生い茂っている姿を目の当たりにすることでしょう。
 そのときこそ、人間が「腐海の森が広がり続ける中で、次に暮らす場所はどこか」への回答なのだろうと思われます。そしてその腐海の底こそが、「蒼き清浄の地」なのではないでしょうか。

 彼らは、人々が歩いて腐海の底へと至ることができるルートを探しに出かけたのかも知れません。ナウシカ単独で腐海を探索すると、普通の人では辿れない移動ができてしまいそうですし)

 そして、腐海の底には清浄な地があることを知っているナウシカだからこそ、それを探しに向かうユパとアスベルのことを、以下のようなこんなにも清々しい表情で見送ったのではないでしょうか。これは、彼らの旅によって人々が腐海の毒に怯えずに暮らせる場所を見つけられるかも知れない、という希望に満ちた表情だったのかもしれません。

 

6. [補足1]ナウシカ・レクイエムを歌っていたのは誰?

 ラン、ランララランランラン、という悲しげなメロディが印象的な歌。この曲は作中で3回登場します。
(1)王蟲接触し、触手でぐるぐる巻きにされるシーン*29
(2)ナウシカ幼少期の記憶を思い出すシーン*30
(3)金色の野を歩いているシーン*31

 ではここで、それぞれの歌声の違いと各シーンの描写について振り返ってみましょう。

サウンドトラックによると、「腐海の奥で王蟲一人と交流するシーン」の曲名は「王蟲との交流」、ナウシカ王蟲に轢かれたあとの曲名は「ナウシカ・レクイエム」となっています。

(1)触手ぐるぐる巻きのシーン

 腐海の奥にある王蟲の巣で、王蟲ナウシカ接触するシーン。触手に包まれたあと、王蟲の目がアップになります。青く澄んだ瞳から青空と金色の野に移り変わり、バックの歌は幼い子供(4歳くらいの拙い声)で歌っています。大きな木と眩しい木漏れ日のシーンが映り、王蟲の目のカットに戻って終了します。鮮やかな色使いと輝く光が特徴的なシーンです。

(2)ナウシカ幼少期のシーン

 銅版画タッチで描かれ、くすんだ色合いで表現されています。ナウシカ自身の当時の心情がモノローグで語られ、バックの歌は最初よりも少し大人びた女性(10代程度)の声をしています。大きな木の根元に隠していたはずの王蟲の子供を父ジルに奪われ、「お願い、殺さないで!」と懇願するところで途切れます。

(3)金色の野を歩くシーン

 ここでの歌声は再び、幼い子供(4歳くらいの拙い声)となっています。

考察 - 拙い歌声の主について

触手が出る≠拙い歌声

 上記の(1)〜(3)の状況だけ見れば、「王蟲が触手を出すと、拙い声の歌が聞こえる」ものと思ってしまいます。しかしながら本編中には、触手を出していてもあの歌を歌わない王蟲がいます。ペジテの囮となっていた小さい王蟲です。

 囮の王蟲は「ナウシカが酸の湖に傷を浸したあと*32」と「王蟲に飛ばされ倒れた直後*33」の2回触手を出していますが、そのどちらも、この子の触手だけが出ている状態では、あの歌は流れません。

 また、「王蟲に飛ばされ倒れた直後」のシーンでは、以下のようにBGMが変化していきます。

  1. 囮の小さい王蟲ナウシカのそばで触手を出す:曲なし
  2. 近くの大きい王蟲たちが触手でナウシカを持ち上げる:ヘンデルサラバンド風のメロディ
  3. 周囲の王蟲たちが触手を伸ばして金色の野を作る:「ラン、ランララランランラン、」と拙い歌声が聞こえてくる。

 ここから、「拙い声で歌っているのは誰か」をある程度絞り込むことができます。

ナウシカ王蟲接触経歴

 ナウシカが最初に王蟲接触したのは、(2)の幼少期と思われます。記憶の中のナウシカはおおよそ4, 5歳程度の姿で描かれています。この年齢は、(1)と(3)で聞こえてくる歌声の年齢と合致する年頃です。

※なお実際の収録では、久石譲さんの当時4歳の娘さんが歌い収録を行ったとのことです(ソースは下記)。

久石譲の娘・麻衣、「ナウシカ」曲初披露へ…映画公開から30年 | ORICON NEWS

 また、(2)のナウシカの記憶の中で同じメロディの歌が流れるということは、あの歌はナウシカがもともと知っていた歌と考えてよいでしょう。

 

 この作品の中であの歌はナウシカ王蟲をつなぐ象徴となっています。もしもあの歌がナウシカの幼少期に由来するのであれば、それはつまり、幼少期にナウシカが歌っていた歌声を、ナウシカがかつて保護した王蟲の子供が覚えていたのかもしれません。 

 (1)のシーンで見える金色の野と大きな木が、子供の王蟲が見た景色と仮定するならば、(2)のナウシカ王蟲を隠していた場所の景色と同じ場所と推測されます。王蟲の目から見たあの場所と当時のナウシカの歌声は、それほどまでに輝かしく見え印象的だった、ということをナウシカに伝えたかったのでしょう。

 また、ナウシカと最初に触手で接触した(1)の王蟲が、ナウシカに対してあの歌を歌いかけたということは、(2)で「殺さないで!」と頼んだ王蟲の子供が、殺されずに腐海の森の奥へと放たれたと考えることもできます。つまり、あのシーンは「あの時助けてもらった王蟲です」という、ナウシカとの再会のシーンだったとも言えるかも知れません。

 そう考えると、(2)のシーンから目覚めた直後のナウシカが、やや涙ぐみつつも穏やかな表情をしているのも、「別れの悲しい記憶を思い出して泣いている」のではなく、「あのときの王蟲は死んでいなかった」という喜びの涙だったのだと考えることができます。

 なお、(2)のシーンで流れるやや大人びた声の歌声は、おおよそ10代の女性程度の声に聞こえますので、現時点のナウシカの歌声(=その夢を見ていた時点での年齢)と考えるとよいのかもしれません。

ナウシカを慕う王蟲たち

 ナウシカの歌を記憶しているのは、おそらくは「幼少期のナウシカ接触した王蟲の個体」と、その個体からナウシカの存在を教えてもらった王蟲の仲間だと思われます。

 ナウシカ接触個体がナウシカのことを命の恩人と思っており、王蟲たちがナウシカのことを王蟲口コミで知っているのであれば、最後に王蟲たちがナウシカの命を助けた(復活させた?)ことにも説明がつきます。また、そのシーンの内、「王蟲が皆で触手を伸ばしたタイミング」であの歌が流れるのも、「あの歌を覚えている王蟲の個体が触手を出した」ことであの歌が流れたと考えることができます。

 また、ペジテの囮だった王蟲の子供は、小さい(=生まれたばかり?)であったために、幼少期ナウシカのエピソードとそれにまつわる歌を知らなかった可能性があります。それゆえ、触手を出してもあの歌を歌えなかったと思われます。

 

 よって、あの歌声は、「幼少期のナウシカの歌声」であり、かつ、それを覚えていた王蟲の記憶(≒録音)を再生したものだったのでは、と私は考えています。

7. [補足2]ナウシカの「不思議な力」はテレパシー?

 冒頭、ユパは暴走する巨大な王蟲からナウシカに命を救われ、その上凶暴なキツネリスをすぐ手懐けてしまったナウシカを見て、「不思議な力だ」と独白します。

 では、そのユパの言う「不思議な力」とは、どんな能力のことを言うのでしょうか?蟲と心を通わす力?生き物を愛する心?

 もしかするとそれは、「テレパシー」のことかもしれません。

 ナウシカテレパス能力があることは、下図のように原作ではわりとはっきりと描写されています(第1巻の中だけでも6回)。

風の谷のナウシカ」漫画版 1巻 33ページより引用

 一方でアニメ版では、この設定についてははっきりと明言されるシーンはありません。原作の設定をどこまでアニメ版に反映しているかは不明ですが、アニメ版でもふとしたタイミングでそれらしい描写が挟み込まれることで、その可能性を疑わせる構造となっています。そのため、アニメ版だけを見ていても「ナウシカテレパス能力」を疑うだけの材料は十分揃っています。

ナウシカテレパス能力が疑われる事例

(1)当然のように生き物や蟲たちに話しかけまくる

 そもそもナウシカ自身が、「蟲は話しかければわかってくれる」と思っている様子があります。かつ、実際に彼らはナウシカの言うことには従っています。

 

[例1: ]冒頭の暴走する王蟲とのシーン

王蟲、森へお帰り!この先はお前の世界じゃないのよ!ねえ、いい子だから!」

(話しかけた上で話を聞いてもらえないところを確認してから)

「怒りに我を忘れてる。鎮めなきゃ!」

(閃光弾で王蟲を鎮めてから)

王蟲、目を覚まして。森へ帰ろう」

(その後、王蟲ナウシカの指示どおり森へと帰る)*34

[例2: ]キツネリスを手懐けるシーン

「おいで、さあ」

「ほら、怖くない。怖くない」

(キツネリスが噛み付く)

「ほらね、怖くない。ね?」

(キツネリスが傷を舐める)

「怯えていただけなんだよね?」*35

[例3: ]谷のウシアブに話しかけながら誘導し、谷の外へと飛ばせて連れて行く*36

「森へお帰り。大丈夫、飛べるわ。そう、いい子ね」

[例4: ]腐海の中の王蟲の巣で、王蟲の触手に包まれてなんらかの視覚的なコミュニケーションを取っている。その上王蟲からなんらかの情報を受け取っている*37

「私達を調べている......。王蟲、ごめんなさい!あなたたちの巣を騒がせて。でもわかって、私達あなた方の敵じゃないの。」

「あの人が生きているの?待って!王蟲!」

 

  普通の人々は、谷の人々でさえ、そもそも蟲に話しかけたりなどしていませんし、ウシアブが居ればまず撃ち殺そうとしたりする対応を示しています。また、ナウシカがウシアブの目の前に行く様子をみて、谷の人々もどよめいている様子があります。

 その点からも、ナウシカの特異性が際立っていると言えるでしょう。

 

 ナウシカの、テトへの対応やトリウマのカイ&クイに話しかける様子は、一見すると、「ペットに話しかける人」やムツゴロウさんっぽさがあるように見えてしまいます。しかしながら彼女の能力はそこでおさまる程度ではありません。その能力は巨大な暴走する王蟲にも有効な上に、王蟲から情報を引き出したりしているところを見ると、「ただの生き物好き」では説明できない能力であることが示唆されています。

※ここで、ナウシカを「いきものと心を通わせるプリンセス」であると考えると、これはウォルト・ディズニーが描いた「森の動物達とお話する白雪姫」や「小鳥やネズミたちと友達のシンデレラ」などのプリンセス像を、宮崎さんなりに解釈した結果だったのかもしれません。「異なる動物とも心を通わせることができる」という描写の根拠として、「姫はテレパス能力者である」、という回答を出したのかもしれません。

※ちなみに、「風の谷のナウシカ」には「囚われのお姫様」が3人も出てきます。トルメキアに囚われたラステル(死亡)、トルメキアに囚われペジテに連れて行かれたナウシカ(自力脱出)、風の谷で捕らえられたクシャナ(脱走)。

 

(2)なにかの気配に気づくのが毎回早すぎる

 ナウシカは作中において、誰よりも早く、真っ先に物事に気づく場面が多く描かれています。視聴者にもわかるような音やビジュアルでわかりやすく描かれるよりも前に、ナウシカが気づいている様子が、あちこちで見られます。

[例1: ]暴走した王蟲に追われているユパの存在に気づいた時*38

[例2: ]風の谷に不時着しようとしているトルメキアの船を発見する時に、自分の見えていない方角にいきなり振り返り「はっ、あそこ!」と指摘する*39

[例3: ]クシャナたちを乗せたトルメキアの軍勢が風の谷にやってくる際、船団が見える前にその気配に気づき、眺めのいい場所に移動する*40

[例4: ]アスベルの乗ったペジテのガンシップが太陽の中に隠れていることに突然気づき、太陽を見上げる*41

[例5: ]城おじたちが乗せられたバージのワイヤーが切れて腐海に落ちそうになった際、バージが見える前に方角を含め気づいている*42。さすがのミトも驚いている。

ナウシカ「後席、右後方に注意!近くに居る!」

ミト「えっ」

ナウシカ「まだ飛んでる!」

ミト「あっ、ほんとだ!ほんとにいた!」

※他にも、ペジテの船から脱出してトルメキア軍から撃たれまくってる*43のに一発も弾が当たらず全て回避しているのも、テレパス能力を使っている可能性が考えられます。

ナウシカが劇中で被弾したのは、囮の王蟲を連れたペジテの兵士を止めるために仁王立ちになり、メーヴェから足を離して自由落下しているシーンだけです。能動的に動けるうちは被弾0で回避できる人なのです。

 

(3)なにかビジュアル的な念を飛ばしている

 アスベルがトルメキアの船を落とそうと撃っていた時、「やめて!」とナウシカが叫ぶと、実際の服とは異なる白いワンピースを着たのナウシカの姿がアスベルに伝わっています*44

 アスベルの状況などから考えると、ナウシカは何らかのビジュアル的なものを発するタイプのテレパス能力者なのかもしれません。

 ほかにも、王蟲の触手にぐるぐる巻にされているシーン*45でも、ナウシカの服は飛行服から白いシャツのようなものに変化します。ナウシカにとって「白い服」は精神面でのやり取りをする際のビジュアルと考えられます。

ナウシカの白服≒ガンダムの全裸?

※ジルを殺されブチギレて、トルメキア兵を相手に暴れまくり一騎当千の戦いぶりをみせたナウシカ*46。素の戦闘能力が高いことも十分考えられますが、彼女にテレパス能力があること、また気合いを入れれば念でなんらかのビジュアルを送ることができるという前提をもとに考慮すると、あの大暴れの中ではトルメキア兵に対して「何らかの念」を放っていたことも考えられます。それにより、ナウシカが無双する結果になったのではないでしょうか。

※ちなみに漫画版ではテレキネシスを使って相手の体を操作することもできています。

「わたし、自分が怖い......!憎しみにかられて、何をするかわからない!もう、誰も殺したくないのよ......」*47

ナウシカテレパス能力に気づいたユパ

 ユパは、ナウシカの特殊な能力が発揮されている場面を3度目撃しています。

  1. 怒れる巨大な王蟲を鎮める:ナウシカが「閃光弾と蟲笛だけで」鎮めたと思い驚く*48
  2. 怯えたキツネリス:ナウシカが話しかけることで怒りを鎮めた様子に、「不思議な力だ」と考える*49
  3. 風の谷に来てしまったウシアブ:ナウシカが蟲笛を使って話しかけて誘導し、飛び立たせている様子を目の当たりにする*50

 おそらくここでユパはこの3度の経験から、最初の王蟲のときも「閃光弾と蟲笛だけで」鎮めたわけではないことを理解したと考えられます。ナウシカのもつ不思議な力とは、この「話しかける、心を通わせる能力」であると、3度めの時点で確信を抱いたのかも知れません。それを裏付けるように、ウシアブとともに飛び立ったナウシカを、ミトとともに見送るシーンでは、ユパの強い眼差しがアップになる描写がされています*51

 ナウシカのテレパシー能力にいち早く気づいたユパは、いざという場面でとっさにナウシカに念を送っています。ナウシカが怒りの感情に任せてトルメキア兵を殴り殺して暴れた直後のシーン*52です。表向きはトルメキア兵に説得をしながら、念でナウシカの心に直接語りかけています。

ナウシカ、落ち着けナウシカ。いま戦えば、谷の者は皆殺しになる。生き延びて、機会を待つのだ」

 これはユパもテレパシー能力者だった、というわけではないと思われます。ユパはナウシカの能力の性質に何となく気づいた上で、試しに念じて伝えてみたのではないでしょうか。結果的に通じてしまっているのですが。

8. [補足3]ペジテ兵士とのやり取りの謎

(1)なぜナウシカをラステルと誤解したのか

 王蟲の子を囮にしているペジテの兵士を止める際、ナウシカは両手を広げて仁王立ちとなり、ペジテの兵士たちの前に立ちはだかります*53。そのナウシカの姿を見て、若い射撃手は

「いやだ、撃ちたくない。ラステルさん.....っ!」

 と口走っています。このシーンもナウシカのテレパシーでなにか送ったのでしょうか?

 これについての詳細はわかりませんが、あれはナウシカあの服の紋章を彼に見せつけていたことで生まれたやりとりなのではないでしょうか。

(2)変装がペジテの姫の服だった可能性

 あの服はラステル(=ペジテの姫君)の母(=后?)から譲り受けたもの*54であり、胸の部分に派手な紋章が入っています。またこの服は風の谷の人が見れば子供でも「異国の服」とわかるデザインとなっています。もしかすると、ペジテの紋章などが入った、王家の女性が纏う服だったのかも知れません。

 ナウシカ自身も族長の娘ですから、それがもし他国を象徴する紋章であれば、その紋章の意味を理解して着用していた可能性もあります。

 この服はよく見ると、紋章の中心部分に光沢のあるかなり大きな赤い石のようなものがつけられており、平民の服ではなかなか使用されないサイズ、素材でできている様子です(下図参照)。

※原作漫画では、赤い宝石については「タリア川の石」という宝石が登場します。ナウシカの耳飾りもこの石からできているとのことです。

 この「赤い石が衣服に大きく縫い付けられている」というのは、ペジテの姫君の装束の象徴だった可能性が疑われます。物語前半の、トルメキアの船が墜落してラステルが負傷したシーンでも、ラステルは「頭に大きめの赤い石がたくさんついた帽子」をかぶっています。その身なりを見て、ミトもひと目で彼女がペジテの姫であることに気づいています。

「この方は、ペジテ市の王族の姫君ですな」

 

 以上より、そうした装飾品などから「ペジテの姫を想起させる服」を着た女性が、ペジテ市民の目の前に現れれば、とっさに「ラステルさん」だと思ってしまうのも無理はないかと思われます。

 ナウシカ自身もそれを狙って、あえてテレパシーではなく仁王立ちで紋章を見せつける形でペジテの兵士に立ち向かったのでは、と考えます。

(3)ラステル母の意図と、身代わりの娘

 ラステルの母は、ペジテの姫君の母ですから、ペジテ王族の一員と考えられます。その人物が、ナウシカ姫に対して非礼を詫び礼を尽くすのであれば、そこで彼女に貸し出す服は「高貴な服」だったと考えられます。「アスベルからすべて聞きました」と語っていることから、ナウシカが族長であった父を既に喪い、今や風の谷の族長の立場となっていることも理解した上での対応だったことでしょう。

 そしてその場には、ナウシカに服を渡し、身代わりとなった少女がいました。ナウシカは彼女のことを心配しますが、ラステルの母は「大丈夫、心配しないで」と言い切ります。

 彼女は後のユパ乗り込みの直前のシーンで、窓際で銃を携えて待機しています。ある程度の武装を扱うことができる人物のようです。

 彼女の存在についても何パターンか可能性が考えられます。

  1. もともとラステルの影武者等、護衛役の少女だった(いざとなったら戦って死ぬ覚悟ができている役職の子だった)。
  2. ペジテの姫君の中で、ナウシカと年が近い姫の生き残りが身代わりとなった。
  3. ペジテの市民から有志を募った。

 私自身は1の仮説を考えています。

 とはいえ、別な章でも語っていますが、基本的にペジテの人々はいざとなったら自爆特攻をしかける文化圏の人々なので、だれが身代わりになっても死ぬ覚悟ができている状況だったかもしれません。

9. [補足4] 王蟲の群れの先頭に降り立った理由

 ナウシカは、風の谷に向かって暴走する怒れる王蟲の群れを止める手段として、「自分が群れの先頭に降り立つ」ことを思いつき、実行します。それは結果的に見事成功するのですが、なぜうまくいったのでしょうか。ナウシカはなぜそれを思いついたのでしょうか。

 おそらくこれには、ナウシカ自身の経験が影響していると思われます。

(1)「怒りに我を忘れてる」

 ナウシカが物語冒頭の巨大な王蟲に対して言った、「怒りに我を忘れてる」というセリフ。ナウシカはそうなった蟲たちを鎮める術として、蟲笛や閃光弾という手段を使っていました。しかし彼女は、彼女自身が「怒りに我を忘れてる」状態になることには慣れていませんでした。

 ジルを殺され大暴れしてしまったナウシカは、まさしく怒れる王蟲と同じ、「怒りに我を忘れてる」状態となっていました。大婆様が暴れるナウシカに対して「ナウシカ......」と呼び止める声にすら一切反応を示さないところは、蟲笛に反応しない王蟲の姿とも重なります。

 そんなナウシカを止めることができたのは、ユパが身を挺してナウシカの剣を受け止めたからでした。ユパは、自身の傷ついた姿やそこから流れ出る血をナウシカ自身に見つめさせた上で、ゆっくりと語りかけることにより、ナウシカの冷静さを取り戻させています。

 ナウシカにとってこの経験はとても衝撃的なものとなったであろうことが、その場面のナウシカの様子から読み取れます。

 自らの攻撃によって、敬愛する人物が傷つき血を流してしまった姿を目の当たりにする。それは、怒りで我を忘れてしまった者が冷静さを取り戻すための最終手段として、ナウシカの中に記憶されたのでしょう。

(2)王蟲との関係性への信頼

 ナウシカは、腐海の底でかつて助けた王蟲と再会したことで、王蟲と自分との間には精神的な結びつきがあると確信したのではないでしょうか。

 そして、蟲笛や閃光弾も効かない「怒りに我を忘れてる」王蟲の群れを鎮めるための手段として、その王蟲との信頼関係に賭けたのだと思います。

 自らの攻撃によって、敬愛する人物が傷つき血を流してしまった姿を目の当たりにする。

 ナウシカに残された、そしてナウシカが師から身を以て教えられたその「鎮める」手段を実行するにあたり、ナウシカは自分が王蟲から「愛されている」ことを信じたのかもしれません。

 そうして、自ら身を挺して王蟲の群れの先頭に立ち、王蟲によって傷つけられた姿を晒し、王蟲たちに見せつけたのだと思います。

 結果的に、ナウシカはその賭けに勝ちました。王蟲たちはナウシカを慕い愛していたのです。王蟲の突進により負傷したナウシカを取り囲んだ王蟲たちは、ナウシカの傷ついた姿を目の当たりにし、次第に冷静になって行きました。

 そして、彼らは愛するナウシカのために触手を伸ばし、彼女の傷を癒やしました。ナウシカとの絆の象徴であるあの歌を歌いながら。

(3)原作の描写との比較

 「ナウシカが怒りで暴れるのをユパが止める」シーンと「王蟲の群れをナウシカが食い止めるシーン」は、いずれも原作漫画にも存在しますが、アニメ版ではかなり描写を変更されています。

 ユパが止めるシーンでは、アニメのようにいきなりブチギレて暴れまわるのではなく、ナウシカはもっと言語的コミュニケーションをした上で最終的にブチギレ、1対1の決闘に持ち込んでいます。また、この場面でユパはそんなナウシカのことを「王蟲のように怒りで我を忘れている」とはっきり表現しています。

漫画版「風の谷のナウシカ」第1巻 61ページより引用

 原作の描写と比較すると、アニメの表現はより「ナウシカの暴走」を強調した描写に変更されていると言えます。

 

 また、王蟲の群れを止めるシーンは、原作では「くるな!」と強い念話(テレパシー)を放って止めています。

漫画版「風の谷のナウシカ」第2巻 68ページより引用

 アニメ版では全体を通して、ナウシカテレパス能力をはっきりとは描かない方針にしているため、原作のような止め方は描写できなかったのでしょう。

 そのためアニメ版では、ナウシカの暴走をより王蟲に似たものに寄せることによって、「ナウシカが怒りに我を忘れている」ことをセリフをつかわずに表現しています。

 そしてそこを引用することで、アニメ版では、ナウシカを止める手段を示すユパ、それをなぞって王蟲の群れを止めたナウシカ、という構図に変更したのではないでしょうか。

10. おわりに - ストーリーの図解

 最後に、これらの考察を組み込んだ上で、アニメ劇場版ナウシカのストーリーがどのように進んでいくかを図解してみました。

 まずナウシカの物語が始まる前の前提として、以下のような状況があります。

 ここから、ナウシカを中心として下図のように複数のストーリーが動きます。

 こうして見てみると、作中で本筋として描かれている「巨神兵をめぐる戦い(赤の矢印)」と並行して、「ナウシカの研究(青の矢印)」と「王蟲との絆(黄色の矢印)」と、合計3つのラインがあることがわかります。

 そしてそれぞれの矢印が、

青: 病いの原因を突き止める→蒼き清浄の地がいずれ見つかる

赤: 巨神兵の奪い合い→巨神兵がそもそも崩壊して無くなる

黄: 王蟲との交流→失われし大地との絆を結ぶ

 と、大きな解決策に結びつき、今後来るであろう(比較的)明るい世界を示唆しています。

 原作とはかなり異なる結末となったアニメ版ナウシカですが、アニメ版はアニメ版で、作中で問題提起された内容に対し、アニメ版なりの回答を示し完結したのだろうと私は考えています。だからこそ最後の「おわり」のシーンには葉っぱの存在が重要だったのだろうと思います。

 

*1:本編20分ごろ

*2:本編1時間15分ごろ

*3:本編1時間14分ごろ

*4:本編2分ごろ

*5:本編8分ごろ

*6:本編20分ごろ

*7:本編1時間14分ごろ

*8:本編1時間21分ごろ

*9:本編21分ごろ

*10:本編1時間10分

*11:本編30分ごろ

*12:本編1時間18分ごろ

*13:本編1時間30分ごろ

*14:本編39分ごろ

*15:本編1時間13分ごろ

*16:本編1時間33分ごろ

*17:本編16分ごろ

*18:本編1時間48分ごろ

*19:本編19分ごろ

*20:本編1時間55分〜

*21:本編20分ごろ

*22:本編1時間14分ごろ

*23:本編42分ごろ

*24:本編1時間6分〜

*25:本編1時間9分

*26:本編1時間8分

*27:本編1時間21分

*28:本編17分および19分ごろ

*29:本編56分ごろ

*30:本編1時間2分ごろ

*31:本編1時間53分ごろ

*32:本編1時間44分

*33:本編1時間52分ごろ

*34:本編11分ごろ

*35:本編13分頃

*36:本編27分ごろ

*37:本編56分ごろ

*38:本編8分ごろ

*39:本編22分ごろ

*40:本編31分ごろ

*41:本編46分ごろ

*42:本編51分ごろ

*43:本編1時間29分ごろ

*44:本編49分ごろ

*45:本編56分ごろ

*46:本編33分ごろ

*47:本編43分ごろ

*48:本編12分ごろ

*49:本編14分ごろ

*50:本編27分ごろ

*51:本編27分ごろ

*52:本編34分ごろ

*53:本編1時間41分ごろ

*54:本編1時間25分ごろ

悲しみに寄り添ったのは誰か - アイスマンとチャーリーの比較

 下記の記事の内容で語りきれなかった、「マーヴェリックの周囲の人間が、マーヴェリックの心にどう接していたのか」についてまとめました。主に「トップガン(1986)」での描写を根拠にしています。

mymemoblog.hatenadiary.com

(2022/9/4 追記)

※前回記事の「飛行機乗りの孤独についての比較」では、「なぜマーヴェリックはペニーたちとの疑似家族のかたちで落ち着いたのか」という点について考察しています。

 

1. はじめに

 「トップガン マーヴェリック(2022)」では、「トップガン(1986)」に登場していたアイスマンは登場しますが、一作目のヒロインであったチャーリーは登場しません。別なヒロインとしてペニーという女性が登場します。

 ここから、約30年後の時点では、チャーリーとの関係性は維持されなかったけれど、アイスマンとの関係性は30年間維持されたことが示唆されます。また、アイスマンとはかなりしっかりとした信頼関係が構築されていることが、「トップガン マーヴェリック(2022)」では描かれています。

 なぜそうなったのか、そこに至ったのかについての根拠は、「トップガン(1986)」の中ですでに描写されている、と私は考えました。特に決定的だったのは、グースを喪った直後のマーヴェリックに対する対応の差と私は考えます。アイスマンとチャーリーでは、真逆とさえ言える対応の差が作中で描写されています。

 それについて以下についてまとめます。

 

2. チャーリーの場合

(1)出会い

 マーヴェリック(ピート)とチャーリー(シャーロット)の関係性は、冒頭のバーでの賭けナンパから始まります*1。他の女性たちが華美で露出の多いワンピースドレスを纏い、嬉々として軍服姿の男たちに群がる様子が描かれますが、マーヴェリックは狙う対象として、そんな女性たちを選びませんでした。華やかな女性が多い中で、一人だけポロシャツを着てセーターを羽織りジーンズを履き、軍人たちに媚びるようすもないチャーリーの姿はあのバーの中では浮いて見えたことでしょう。あのシーンは、チャーリーの美しさに目を奪われた、と解釈することもできますが、マーヴェリックが選んだ理由は、「軍人狙いの女」ではないことにもあったのかもしれません。

 

(2)チャーリーを狙った理由?(持論)

 ここで脱線しますが、私自身は「女遊びも兼ねて、マーヴェリックは父の死の真相を調べようとしていた」説を提唱しています。(以下、個人的解釈が強いため小文字表記にします)

 おそらく海軍基地内と思われるバー(軍人の客が多く、入り口にアメリカ国旗が複数掲げられている)の中で、軍人との遊び目的には見えない女性がいた場合、それは「軍の関係者」と推測できます。軍の上層部や軍事機密に近づける人間を探し、父の真相にアクセスしようとしていた可能性もあるのではないでしょうか。作中、マーヴェリックは過去に「司令官の娘」とも関係があったことが語られています*2

 また、作中チャーリーが機密情報に近づける立場の人間であることを知った*3上で、チャーリーの自宅に呼び出された後、父親の死の真相について調べていることを吐露しています*4。興味を持った彼女に対し

「機密に近づけるんだろ?調べろよ(原語: I figured with your security clearance you'd know more about it than I do.)」

とまで言っていますから、これまでも過去の女性にこのようなやり口で機密情報をしらべるようにとけしかけていたのかと想像してしまいますね。

 「遅れてすまない」と表面上は謝罪しているマーヴェリックの表情が、何かを試すような顔をしている*5のも、「眼の前の女が自分の情報収集の使い物になるか」と品定めしているかのような冷徹さが含まれているようにも見えます。この時ですが、目にキャッチライトが入らない位置に移動し、木漏れ日で顔の陰影を際立たせることで、表情の真意が読み取りにくいようなカットとなっています。こうしたマーヴェリックの心情を表現するための撮影時の指示かもしれません。女遊びをしているようでいて急に冷徹な表情に変わったことに、チャーリーも

「むずかしい人ね(原語: This is going to be complicated.)」

と返しています。

 その後、マーヴェリックは少しの間待ったあと、チャーリーからは何も得られそうにないと思ったのか、すぐに身を引きその場から立ち去っています。

 チャーリーとのベッドシーンすら、ヴァイパーから真実の機密情報を知る前の段階であることを考慮に入れてもいいかもしれません。

 とはいえ、上記はかなり穿った見方をした場合です。マーヴェリックは単に駆け引きが上手く遊び慣れていて、「そういう媚びてこない女が好き」という説明で片付けることも、もちろん可能です。チャーリーの家に呼ばれたのにミグの話ばかりされて気落ちしているような様子*6や、父の死の真相を知った後、チャーリーが戻ってきたことを喜ぶ様子もみられる*7ので、純粋にチャーリーと付き合いたかった、と考えることもできます。

 

(3)チャーリーが愛した「天才パイロット」

 話がかなり脱線してしまいました。その後のチャーリーのマーヴェリックに対する対応について記載します。

 作中を通して、チャーリーは「天才的なパイロットであるマーヴェリック」のことが好きな女性として徹底して描かれています。ただのパイロットでは興味を持たず*8、冷たくあしらっています。トップガンの教官なので、普通のパイロットには見慣れている、というのもあるでしょう。

 しかしながら、マーヴェリックが「ミグと渡り合った」と知り、急にマーヴェリックに興味を持つようになります*9。そこからチャーリーの(ミグとの接触について詳細を知ろうとするための)積極的なアプローチが始まります。

 

 結果的にはチャーリーはマーヴェリックに対し恋に落ちるのですが、告白する時のセリフですら、

「あなたは天才的なパイロットよ。でもそう言うと皆に知られてしまうわ。あなたに恋したことを(原語: I see some real genius in your flying, Maverick, but I can’t say that in there. I was afraid that everyone in that TACTS trailer would see right through me. And I just don’t want anyone to know that I’ve fallen for you.)」

と語っています*10。このセリフこそが、チャーリーの本質をよく表していると言えるかも知れません。

 

 そうした態度が、グースを喪いトップガンから去ろうとしたマーヴェリックにかける言葉にも表れています*11

「調べたけど、あなたの責任じゃないのよ。確かよ (原語: I've seen all the evidence, and it's not your responsibility. It's not your fault.)」

「......。」

「あなたは最高のパイロットよ。空を飛ぶのは危険だけど、あなたの道よ(原語: You're one of the best pilots in the Navy. What you do up there... It's dangerous. But you've got to go on.)」

「君には分からない (原語: You don't understand.)」

「最初に会った時、あなたは自信に満ちていた。今は?あなたにはマッハ2の世界が必要なはずよ(原語: When I first met you, you were larger than life. Look at you. You're not gonna be happy unless you're going Mach 2 with your hair on fire.)」

「それはもう終わったんだ(原語: No, that's over. It's just over.)」
「トップの人間でもミスはするわ。でも皆歩み続ける(原語: To be the best of the best means you make mistakes and then you go on. It's just like the rest of us.)」

「知ってるよ(原語: You don't think I know that?)」

「力にならせて(原語: I'm here to help.)」

「気持ちは嬉しいが、助けが必要なら頼んでるよ(原語: Look, thank you. If I'd wanted help, really, I would have asked for it.)」

「遅かったのね。言ってもムダね。ギブアップする事しか学ばなかったのね。(原語: So, I'm too late. You've already left. You didn't learn a damn thing, did you? Except to quit.)」

「......。」

「最後まで操縦は見事だったわ。さよならピート(原語: You've got that manoeuvre down real well. So long, Pete Mitchell.)」

 このやり取りの中で、チャーリーはマーヴェリックに対して、再び空を飛ぶことばかり求めています。まるで、喝を入れて叩き直せば元に戻るとでも思っているかのようです。

 そして、それでも空を飛ぶことを諦めようとしているマーヴェリックに対して、去り際に

さよならピート(So long, Pete Mitchell.)」

と吐き捨てています。彼女にとって必要なのは「空を飛ぶマーヴェリック」であり、「空を飛べないピート」ではないのです。

 その上、チャーリーはマーヴェリックが「父を喪い、母も喪い、孤独に生きた」話を彼からすでに聞かされていたにも関わらず、グースすら喪った直後の状況で、それに対する寄り添いや共感は示していないのです。彼ほどの人間がトップガンを去るという選択をしたことの重大さ、彼が抱える傷の痛みを、想像できていないことの表れでしょう。「あなたの責任ではない」ということさえ分かれば立ち直るとでも思っているような、チャーリーの浅はかさと無理解、共感性のなさ、配慮のなさが表現されているシーンと言えるでしょう。

「知ってるよ(原語: You don't think I know that?)」

と、やや苛立ち気味にチャーリーに返すマーヴェリックの様子に、自分の発言が的外れであることにも気づけていません。故に、

「気持ちは嬉しいが、助けが必要なら頼んでるよ(原語: Look, thank you. If I'd wanted help, really, I would have asked for it.)」

とまで言われてしまっています。

 

 チャーリーが「天才パイロット」が好きだ、という態度は、物語のエンディングまで徹底して描かれています。ストーリー終盤、マーヴェリックが精神的な傷の痛みを乗り越え実戦で活躍し、復活を遂げた後、チャーリーは再びマーヴェリックのもとに現れます*12

 このシーンは、復帰したマーヴェリックに会いに来た、心配して顔を見に来た、とも取れます。その一方で、敵機を次々に撃墜した天才パイロットとして復活したマーヴェリックに惚れ直して戻ってきた、とも取れるでしょう。

 ラストシーンで愛おしそうに触れ合う二人ではありますが、この時代の映画にしては珍しく、キスシーンで終わっていないのも印象的です。その距離感が、続編である「トップガン マーヴェリック」に彼女が関わってこなかったという結末を示唆しているのかもしれません。

 

3. アイスマンの場合

 グースを喪ったあと、トップガンを去ろうと空港に向かう直前、ロッカールームでマーヴェリックが荷造りをしているシーン*13。ここでマーヴェリックはアイスマンと二人きりになります。アイスマンは戸棚に身だしなみの道具をしまっていきますが、その動作すら、不用意な音を立てぬよう丁寧な仕草で行っています。

 ここでのアイスマンの態度は、その後に描かれるチャーリーの態度とはかなり対照的と言えます。ここで原語版でのセリフを見てみましょう。

Mitchell, I'm sorry about Goose. Everybody liked him. I'm sorry.

(字幕: ピート。グースは――いい奴だった。残念だ)

 この言葉を伝える時、アイスマンは間を空けながら、言葉を選びながら話しかけています。かけるべき言葉がわからないような、どこまで言及してよいのかを迷っているような表情にも見えます。そして彼が考え抜いた結果、アイスマンが伝えることができたのは、たったこれだけの言葉しかありませんでした。最後に、「I'm sorry.」と付け加えるほどに。

 このシーンのなかで、マーヴェリックの態度は大きく変わります。アイスマンに話しかけられた当初は握りしめた拳を震わせ、振り返りもせずに険しい顔のまま彼の言葉を聞いています。このときのマーヴェリックには手負いの獣が傷跡に触れられるのを恐れるかのような気迫があるのですが、その緊張感がアイスマンのこのたどたどしい言葉によって、ふっと力が抜けたように緩むのです。

 これまでアイスマンはマーヴェリックに対し、的確ながらも厳しいことを言及する立場でした。それもあり、マーヴェリックはアイスマンの声を聞くだけで警戒していたのかもしれません。けれど実際には、アイスマンはマーヴェリックが抱える悲嘆に土足で踏み込もうとするようなことはしませんでした。それは、相棒グースを喪ったことの悲しみや、それだけでは説明しきれない悲痛な苦しみが彼のなかにあること、そしてそれが「トップガンを去る」ということすら選択させる重みがあるということから、感じ取ったのかもしれません。「それは、不用意に触れてはいけない痛みだ」ということに気づき、それでも寄り添おうとする態度を示そうとした結果、絞り出すことができたのが、あの言葉だけだったのでしょう。

 アイスマンの優しさは、いわば、「触れてほしくない場所に不用意には触れない優しさ、思いやり」と言えるかも知れません。自分にできることの限界や領分を把握しているとも言えるでしょう。その優しさは、この次のシーンであるチャーリーの追い打ちのようなやり取りによって、コントラストがさらに高まります。

 コールサインとしての「マーヴェリック」ではなく、「Mitchell」と呼びかけるのも、空を飛ぶことを強要せず、空を飛ぶことを諦めたマーヴェリックの選択を否定しない立場を表す態度とも言えるでしょう。これもまた、チャーリーが去り際に吐き捨てた「So long, Pete Mitchell.」との対比がはっきりと出ているシーンと言えます。

 

4. さいごに

 「トップガン マーヴェリック(2022)」は、「トップガン(1986)」における人間関係の答え合わせとなった作品だと私は考えています。アイスマンの優しやさ、アイスマンとマーヴェリックとの信頼関係、そして「真にマーヴェリックの孤独や悲しみに寄り添ったのは誰か」ということへのアンサーが、「トップガン マーヴェリック(2022)」で示されているのでしょう。続編が丁寧に人間関係の「その後」を描いてくれたことによって、「トップガン(1986)」の魅力がさらに増した形になっていると私は考えています。

 

*1:トップガン」本編22分ごろ

*2:トップガン」本編14分ごろ、上官からの説教シーン

*3:トップガン」本編27分ごろ、「私は国防省から最高機密に触れる資格をもらっています」

*4:トップガン」本編45分ごろ

*5:トップガン」本編47分ごろ

*6:トップガン」本編44分ごろ、「ミグは忘れよう」

*7:トップガン」本編1時間43分ごろ

*8:トップガン」本編23分ごろ

*9:トップガン」本編28分ごろ、「あなたなのね」

*10:トップガン」本編53分ごろ

*11:トップガン」本編1時間18分ごろ

*12:トップガン」本編1時間43分

*13:トップガン」本編1時間16分ごろ