飛行機乗りの孤独についての比較(「紅の豚」と「トップガンマーヴェリック」から)

 飛行機大好き2歳児が何度も見ている「紅の豚(1992)」と「トップガン(1986)」、そしてその続編である「トップガン マーヴェリック(2022)」において、空を飛ぶ男の孤独の描写にどんな違いがあるかについて考察しました。

 

※注意※

  • これはツイートした内容をブログにまとめ直し加筆したものです。
  • これを書いている時点で、「トップガン マーヴェリック」は劇場に1回しか見に行けていません。うろ覚えの箇所が多い可能性があります。
  • トップガンマーヴェリックのブルーレイを入手したら、子供と一緒に見ながらもう一度検討しなおすつもりです。
  • 私自身は、トップガンマーヴェリックを作ったスタッフは、過去の航空機映画を細かく研究してトップガンマーヴェリックという作品を作り上げたのだろうと予想しています。なので過去の航空機映画の一つとして、分析対象の中に「紅の豚」が含まれていた可能性もあると考えています。

 

1. 共通点

 「紅の豚」と「トップガン」の共通点としては、「空戦映画」という共通点が上げられますが、ほかはあまりありません。「紅の豚」のなかで「トップガン(1986)」に近い時期があるとしたら、ポルコ(マルコ)がまだ若かった、第一次世界大戦に参戦していた頃でしょうか*1

 

 一方、「紅の豚」と「トップガン マーヴェリック」については、

  • 若い時に共に青春を過ごしたことのある(一緒に飛行機に乗ったりした)
  • 過去に他の男との結婚歴のある、酒場の主人のいい女と
  • 空を飛び続けることをやめられない孤独を抱えた男

 と書き出すと、構成要素にわりと共通点があることが見えてきます。しかしながら御存知の通り、この2つの作品の結末は異なっています。

 

2. それぞれの「孤独」

(1)マルコ(ポルコ)の孤独

 マルコ(ポルコ)が抱える孤独はなにか。それはおそらく、「古い友人たちを喪った」ことに起因すると私は考えます。ジーナの最初の夫、ベルリーニが先に逝ってしまった(自分が代わりに逝くことができなかった)ことで、彼と結婚したばかりのジーナを悲しませてしまったという後悔が、マルコ(ポルコ)の中に残ったのではないでしょうか*2

 

 ジーナはベルリーニと死に別れた以降も、マルコ(ポルコ)との共通の友人である飛行艇乗りと2度結婚し、やはりどちらも亡くなっています。作中では、3年間消息不明だった3人目の夫の訃報がその日届いた旨をジーナがマルコ(ポルコ)に伝えています*3

 互いの友人たちを次々喪っていくなかで、マルコはジーナのもとへ時々顔を出す形で寄り添い、ジーナが孤独にならないようにと心がけているようです*4。このことから、マルコ(ポルコ)には「ジーナをこれ以上悲しませたくない。喪失を経験させたくない」という願いがあるのでは?と私は推測します。

 けれどマルコ(ポルコ)自身は、空の男なので、空を飛ぶことをやめることはできません*5。空の男であるかぎり、死の危険があることは互いに十分承知で、また、自分が死ぬということは、必ず誰かを悲しませることでもあります。

 だからこそ、マルコ(ポルコ)としては、ジーナの伴侶になること、もしくは、「ジーナの庭に昼間にやってくる」ことをしていないのかもしれません。またジーナ自身も、これ以上愛した男を喪うことを恐れるがゆえに、マルコ(ポルコ)のことを愛することをまだ決めきれていない様子もみられます。*6

 ジーナを悲しませたくないが故に、それ以上ジーナとの距離を詰めないマルコ(ポルコ)。これ以上悲しみたくないがゆえに、心からマルコ(ポルコ)を愛すると決めきれないジーナ。思いやりはあれど寄り添いきれない二人の関係性がそこにはあるのかもしれません。

 なお、ジーナは過去に3度結婚していますが、最初からずっと一番好きだったのはマルコだったかもしれない、と思わせるような描写も作中に見られています*7。またマルコ自身も、カーチスからジーナが自分に惚れていることを告げられても、特に反応を示したりはしませんでした*8

 このことから推測すると、マルコ(ポルコ)が「ジーナを悲しませないために身を引く」のは、実はジーナがベルリーニと結婚する前からだったかもしれません。たとえジーナに思いを告げられても、「自分は飛行艇乗りであることをやめられない。それはつまり死と隣合わせであることを意味する」と、最初から身を引いていた可能性も考えられます。

 

 以上より、マルコ(ポルコ)が抱える孤独とは、「飛行艇乗りである自分がいつか死に、誰かを悲しませることをわかっているからこそ、誰かに(ジーナにも)近づきすぎないようにしている」という孤独なのではないでしょうか。

 

(2)マーヴェリックの孤独

 マーヴェリックの孤独は、おそらく彼の子供時代から始まっています。天才的なパイロットであった父親が作戦行動中に行方不明になり、そのあとを追うように母親も亡くなっています。彼はパイロットになってからも、機密情報とされる父親の死の真相について調べています*9。父の失踪をきっかけに次第に母が壊れていき、しまいには亡くなってしまったことを語るマーヴェリックの口ぶりには、それが深い傷跡になっていることが伺われます。

 つまり、マルコ(ポルコ)が自覚していた、「飛行機/飛行艇乗りはいつか死に、誰かを悲しませる」という事実を、マーヴェリックは子供として味わった経験があるといえるでしょう。彼の中には、「飛行機乗りの子供」としての孤独が深く刻まれていると思われます。

 マーヴェリックの飛び方が「亡霊を追う」ようであり、グースすら不安にさせると親友であるグースが指摘したのも*10、そうした傷跡が影響しているから、と解釈することもできます。

 

 マーヴェリック自身は、誰か女性を愛したり、子供を愛したりすることができる人間と推測されます。それは、チャーリーと付き合ったり*11、ブラッドリー・ブラッドショー少年(=後のルースター)を積極的に構ったりしている描写*12から推測されます。

 また、ブラッドショー母子が空港に到着した際の、家族仲睦まじい様子を見てマーヴェリックも笑顔になっています*13。その後、ブラッドリー少年を抱きかかえて移動する表情もとても穏やかな笑顔をしています。

 以上から推測すると、マーヴェリック自身はおそらく、「温かい家族」「妻と子供を愛する」ということにとても憧れと渇望を抱いていたのではないのでしょうか。そしてそれを自分の代わりに叶えて(達成して)いてくれるブラッドショー一家のことを、好ましく思っていたのでしょう。擬似的な家族の一員とさえ思っていたかも知れません。それゆえ、グースに対しても、「おれの家族は君だ」という言葉が出たのではないでしょうか*14

 

 しかしながら、結局マーヴェリックは30年以上の時が経っても(=「トップガンマーヴェリック」の時期)、家庭を持つことはありませんでした。あのチャーリーともおそらく破局したのでしょう。

 どれだけ彼が女性関係にめぐまれようとも、家庭を築くことができない。子供が好きで面倒見もいいのに、誰かと子育てをすることもなかった。それはおそらく、彼自身の中にある不安や恐怖心ゆえだったのではないか、と私は考えます。

 

 マーヴェリック自身は、自分の幼少期の経験から、

  1. 飛行機乗りと結婚した女は飛行機乗りが死ぬと後を追って死んでしまう。
  2. 両親が死んで残された子供は、傷を抱え孤独な思いをする。

 ということを、思い知っているのではないでしょうか。

 

 けれどマーヴェリック自身は、自分が飛行機乗りで在り続けることやめることはできない。それが自分自身であり、また、喪った父への理解・共感でもある。彼は危険な空を飛ぶことを離れることはできない人なのでしょう。

 ゆえに、かりそめの恋愛関係*15をいくつも重ねたところで、相手の女性がマーヴェリックに本気になればなるほど、「僕を愛せばこの人も、自分が死んだときに自分を追って死んでしまうかもしれない」と不安に駆られていたのではないでしょうか。結婚や子供の話を相手の女性から切り出されるたびに、その不安に駆られ距離を置くようになってしまったマーヴェリック、というのも在り得たかもしれません。

 自分が飛行機乗りであることをやめないまま子供が生まれてしまったら、いつか自分がどこかで死んだときに、その子につらい思いをさせてしまう。それは自分自身が経験した悲しみの再生産でしかない。そういう葛藤をマーヴェリックは抱えていたのではないか、と私は考えます。

 

 だからこそグースが事故死してしまったことは、自分が家族のように思う相棒を喪ったというだけではなかったのだろうと思われます。友人の息子であるブラッドリー少年という存在がいるからこそ、「自分自身の再生産になってしまうかもしれない」という点においても強い悲しみと恐怖が伴ったのだろうと思われます。

 マーヴェリックがキャロルにグースの遺品を手渡すシーン*16で、マーヴェリックはキャロルに何も言うことができません。また、キャロルが彼を慰めるような言葉を語るたびに、彼はキャロルと目を合わせることすらできなくなります。それはマーヴェリック自身が彼を悲しませた父と同じことを、親友の家庭にもたらしてしまったという自責の念に駆られていたことの表れと言えるでしょう。死の喪失感の前では、いかなる謝罪も言い訳も無意味であると彼自身がよく知っているが故に、何も言葉にすることができないのだと思われます。故に、キャロルのマーヴェリックを気遣うような慰めの言葉すら、彼は受け取ることができず、目を逸らしてしまうのではないでしょうか。

 軍法会議*17でグースの死がマーヴェリックの責任ではないことが明らかとなったあとも、彼自身が自分を許すことができず、ついには空を飛ぶことからすら一旦逃げようとさえしています*18。それは彼の罪悪感の由来が「温かい家庭を破壊したこと」という、彼自身のトラウマに直結する結果そのものに起因しているからではないでしょうか。

 

 「トップガンマーヴェリック」に至るまでのこの30年の間、彼の中には、

  • 死んだことで妻に後追いさせ息子を孤独にした実の父
  • 息子に寄り添うこともできないまま、次第に壊れてそのまま亡くなってしまった実の母
  • 家族のことを思ったがゆえに飛べなくなった優秀なクーガー
  • 死んだことで妻と子供を悲しませたグース(マーヴェリック視点では「死なせてしまった」)
  • グースを喪ったブラッドショー母子

 といった人々が心の中にあったのでしょう。家族を思って飛べばどんなに優秀でも飛べなくなり、それでもなお飛び続けて死んでしまえば、家族は悲嘆に暮れる。そんな中で彼が自分自身や周囲の人の心を守ろうとしたら、「孤独」の道を選ぶのも無理はないと思われます。

 

 以上より、マーヴェリックの抱える孤独とは、「家族という存在への渇望と、それを破壊してしまうことへの恐怖心」から由来していると思われます。

 「空を飛ぶ男の死は家庭を破壊し誰かを悲しませてしまう」ことに恐怖心を抱いているのであれば、キャロルの頼みでルースターの願書を捨てたことも、無理はないのかもしれません。ルースターが自分と同じ孤独の道を辿ることになることを恐れたのかもしれません。

 また、彼が「誰も死なせたくない」という状況でこそ最も高いパフォーマンスを発揮するのも、ここに由来すると考えられます。「トップガン(1986)」における、冒頭のクーガーの着艦の補助や、最後の作戦で覚醒し敵機を次々撃墜する所、「トップガン マーヴェリック(2022)」における、「実行困難な作戦だが全員が助かる方法を模索する」という行動パターンは、すべて「誰も死なせたくない」からと考えれば筋が通ります。

 もう誰も死なせたくない、悲しませたくないという怯えに由来する、マーヴェリックなりの優しさ故に選択した孤独、とも言えるかもしれません

 

(8/27 追記)

 グースを喪ったマーヴェリックと、彼に対する周囲の人間(アイスマン、チャーリー)の態度の違いについてまとめました。

mymemoblog.hatenadiary.com

 

3. 相違点

 マルコ(ポルコ)とマーヴェリックに共通する点としては、「空の男はいつか突然死んでしまう。それ故にその人を愛した誰かを悲しませてしまう」「けれどそれでも空を飛ぶことをやめることができない」ことを自覚している点が挙げられます。

 しかしながら、彼らの間に大きな違いがあるとしたら、子供に対する向き合い方ではないでしょうか。

 マルコ(ポルコ)は子供相手が苦手な様子が作中で何度か描かれています(人質の子どもたちの救出後、初対面のフィオなど)。また、ジーナは3度結婚しても誰とも子供をもうけていません。そのため、マルコ(ポルコ)には「親友の遺児」もいません。

 よくも悪くも、マルコ(ポルコ)とジーナは、あの思い出の中の少年少女の二人の関係のまま来ていると言えるかも知れません。彼らの間には「思い出」はあれど「家庭」は無いように見えます。

 

 一方でマーヴェリックは、子供好きで面倒見もとてもよい人物です。後輩指導では(やや癖が強すぎるものの)彼らを守るために全力を尽くしていますし、親友の遺児であるルースターのことも大切にしています。また、「家庭」「親子」に対する憧れが、ブラッドショー一家に対する視線を通してにじみ出ているのもポイントでしょう。

 

 この違いが、彼らの「結末」が異なる結果になったのではと私は考えます。

 

4. 彼らの結末 - いかにして「空の男の孤独」は癒やされたか

(1)マルコ(ポルコ)の場合

 「紅の豚」の本編終盤の殴り合いのシーンで、マルコ(ポルコ)はカーチスからジーナが庭で彼を待ち続けている旨を教えられます*19。そこでマルコ(ポルコ)は真っ赤になりますが、その後も殴り合いを続けます。二人が海水に沈んでいる中、ジーナが「あなた、もうひとり女の子を不幸にする気なの?」と声をかけ、マルコ(ポルコ)は再び復帰し立ち上がり、賭けに勝利します。

 ちなみにこのシーン、海水に沈む前は丸だった左目のレンズ枠が、起き上がって以降からはずっとハート型になっています(下図参照)。

https://www.ghibli.jp/works/porco/#&gid=1&pid=50 より引用

 その後は、成長したフィオの語りで物語は終わるわけですが、マルコ(ポルコ)とジーナがどうなったかは明確には語られていません。おそらく、彼らが素直に向き合えるような形におさまったのではないか、と推測させる終わり方ではありましたが。

 

 マルコ(ポルコ)が人の姿に戻ったと思われるシーンは、

  1. 弾丸の選別をしているシーン*20
  2. 賭けが終わったあと、フィオにキスをされ、カーチスにイタリア空軍を誘導する旨を提案するシーン*21

の2箇所です。もしもこれを、

  1. フィオの身柄がカーチスに奪われないようにと使命感を抱いて作業をする瞬間
  2. フィオやジーナがイタリア空軍に見つからずに安全に帰れるようにと使命感を抱いている瞬間

と解釈するならば、そういう「責任を負う生き方」を選ぶこと(=誰かのために覚悟を決めること、腹をくくる事)が、豚から人に戻るポイントなのかもしれない、と考えることができます。

 

 もしもマルコ(ポルコ)が、「ジーナに近づかないことでジーナを傷つけないようにする生き方」から卒業し、「責任を負う生き方」を選択して生きていくようになったのだとしたら、それは「豚から人に戻った」という結末になるのかもしれません。そしてそれこそが、ジーナが彼を心から愛することができる形になり、マルコ(ポルコ)は空の男の孤独から開放されたのでは、と思います。人に戻ったからジーナが愛せるようになったというより、ジーナから愛されるだけの覚悟ができたからこそ、豚の姿から人に戻ったのではないでしょうか。

 

(2)マーヴェリックの場合

 マーヴェリックが「家族を破壊してしまうことへの恐怖心」を克服するには、彼には反証が必要だったと考えられます。つまり、

  1. 飛行機乗りと結婚した女は飛行機乗りが死ぬと後を追って死んでしまう。
  2. 両親が死んで残された子供は、傷を抱え孤独な思いをする。

という彼自身の経験からの学習結果(≒思い込み)に対して、

  1. 夫が死んでもその後を追うことなく、たくましく生きていける女性
  2. 父を喪っても母と支え合って生きていける子供

といった存在が必要だったのです。つまり、その形にかっちりとはまり込んだのが、ペニーとアメリアという存在だったと思われます。

 特に象徴的だったのは、マーヴェリックが劇中で、命をかけた作戦に挑むことをペニーに伝えた後、作戦を成功させて戻ってきたときに、ペニー母子が不在だったことでしょう。二人が居ないことにマーヴェリックは意表を突かれた顔をしますが、これはおそらく、彼の知っている中にそういった強い女性のパターンがなかったからかもしれません。

 作戦の成否の結果を聞く前から船旅へ行った二人の姿は、いわば「父を喪っても強く生きていける母子」の姿の証明でもあります。そこから、

「もしも自分が死んでもこの女性なら後追いで死んだりしない強い女性だ。子供に孤独な思いをさせない人なんだ」
という確信が得られたことで、マーヴェリックは自分が誰かの「夫/父になる」ことを許せるようになったのではないでしょうか。

 

 その一方で、ルースターの行動もまた、マーヴェリックの救いとなっていたと考えられます。

 マーヴェリックは親友の子であるルースターを救うために、自分が犠牲になる選択肢を選びました。それは彼の父が「友軍3機を助け亡くなった」という経緯*22にも重なります。マーヴェリックは父と同じ道を選ぶことにしたのでしょう。

 しかしルースターは、窮地に陥ったマーヴェリックを自らの手で助けに行きます。捨て身で守ったはずの親友の子が、彼もまた捨て身で自分を救いに来てしまう。互いが互いを捨て身で守ろうとしてしまったことに二人は一旦衝突しますが、しかしそれこそが、マーヴェリックが自分の父に対して果たすことができなかった、「窮地に陥った父を自分の手で助け出す」ということをルースターが間接的に体現してくれたと言えるのではないでしょうか。ルースターのマーヴェリックに対する怒りや叫びの感情は、それこそが、マーヴェリックが父に向けたかった思いそのものの言語化だったことでしょう。

 また同時に、マーヴェリックがルースターに対して抱いた怒りの感情を自ら自覚したことで、彼は初めて、「父」の感情を理解したのかもしれません。それはつまり、

「もしも自分が仮に父を助けに行くことができたとしても、父はきっと自分を怒ったのだろう」

という答えでもあります。今までずっと「息子」として父を救いたかった感情に対し、「父」ならば何を思うのか、の答えがそこで出たのかもしれません。

 

 それがマーヴェリックにとっての救いとなり、ルースターにとっての「父」となる覚悟を決めた瞬間だったのかもしれません。その行動が、直後のF-14での脱出につながったのでしょう。何が何でも生きて帰るのだ、と。

 マーヴェリックが「父」となる覚悟を決めたことで、ルースターはもうひとりの父を得ることができました。それは、ルースターがマーヴェリックの歩んだ孤独の道を歩まずに済んだことの証となったのではないでしょうか。

 

 作戦を通してルースターから、そして作戦から帰還後にペニー親子から、マーヴェリックは「生きていく強さ」を示されました。作戦から戻ってきた彼は、彼らから多くのものを得ることができたのです。

 

 「トップガンマーヴェリック」の結末について、「結局マーヴェリックはさんざん好き放題して過ごしたあとに最後には妻も息子も娘も手に入れた」という評価ができることは事実です。しかしながら上記のような背景を通して考えると、マーヴェリックという人物が「家庭」を作るには、義理の父親になるのが限界だったと言えるのではないでしょうか。

 すでにそこにある親子が、ちゃんと強い人々なのだと証明されてからじゃないと家族になることを選べなかったという、「あの形でしか家族を作れない人だった」ということが、マーヴェリックが抱える弱さだったのではないでしょうか。

 それでも、グースが存命だった頃のブラッドショー一家に対する、擬似的な家族としての目線というポジションから、さらに一歩進んで、自らが誰かの父となることを自分に対して許せるようになったことが、マーヴェリック自身の大きな成長、そして孤独を癒やす救済になったのだろうと思います。

 

5. おわりに

 2つの作品に共通するのは「誰かを悲しませてしまうかもしれない可能性に怯えて孤独に逃げることをやめ、愛をやりとりする覚悟を決める」という点かもしれません。

 

 「飛行機乗りとしての孤独」を抱えながらも、その由来が異なることで、違う着地点で落ち着いたのが、興味深いと思い、このようにまとめてみました。

 マルコ(ポルコ)に必要だったのはジーナその人だったけれど、マーヴェリックに必要だったのは、「マーヴェリックの不安や恐怖を打ち破ってくれる誰か(ただしそういう強さを持った人が実在することをマーヴェリック自体が当初は信じていなかった)」だったのかなあ、と今では思っています。

 

 当初のツイートよりもだいぶ文字数が増えて読みづらくなってしまいすみません。

 トップガンマーヴェリックのブルーレイを入手したらあとで補足する予定です。

*1:紅の豚」本編1時間07分ごろ〜、フィオに昔話をするシーン

*2:紅の豚」本編1時間10分ごろ、「ベルリーニ、いくな!ジーナをどうする気だ!俺が代わりにいく!」

*3:紅の豚」本編14分ごろ、ポルコが食事をしているシーン

*4:紅の豚」本編15分ごろ、「マルコありがとう。いつもそばにいてくれて」

*5:紅の豚」本編27分ごろ、「飛ばねえ豚はただの豚だ」

*6:紅の豚」本編51分ごろ、ジーナの賭け

*7:紅の豚」本編52分ごろ、ジーナの回想シーン

*8:紅の豚」本編1時間24分ごろ、「ジーナはてめえに惚れてるんだぁっ!」と殴られても顔が赤くならないマルコ

*9:トップガン(1986)」本編45分ごろ、チャーリーとの会話

*10:トップガン(1986)」本編38分ごろ、「空での君は亡霊を追ってるようだ。不安になる。」

*11:トップガン(1986)」本編53分ごろ〜、チャーリーの告白シーン以降

*12:トップガン(1986)」本編1時間2分ごろ、グースのピアノで歌うシーン

*13:トップガン(1986)」本編50分ごろ

*14:トップガン(1986)」本編38分ごろ、ルースターとの会話

*15:トップガン(1986)」本編1時間2分ごろ、キャロルの話から推測

*16:トップガン(1986)」本編1時間13分ごろ

*17:トップガン(1986)」本編1時間14分ごろ

*18:トップガン(1986)」本編1時間20分ごろ、空港でチャーリーが話しかけてくるシーン

*19:紅の豚」本編1時間24分ごろ

*20:紅の豚」本編1時間5分ごろ

*21:紅の豚」本編1時間28分ごろ

*22:トップガン(1986)」本編1時間23分、ヴァイパーの話

このブログについて

ツイッターでぼやいた内容をあとで見返しやすいようにブログでまとめることにしました。

 

映画:子供(2020年生まれ)が何周も見たがる映画を後ろで一緒に見ている間に考えたことをまとめています。

 

ほかには、その時ハマったものや調べたことをまとめたりする場所になると思います。